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2008年11月

2008年11月30日 (日)

インドに行くしかない。

「マインドコントロール」の続き。

出家直前にマインドコントロールから解放されたものの、親を捨て?家を捨てる?気持ちだった人間が、元の仕事にすんなりと戻ることは簡単にできなかった。年度始めだったので学校勤めの話はすぐに来たが、やる気がおこらず断った。

しばらくはゆっくり休もう。でも、その先どうやって生きていこうか。自分の中で見通しが全く立たない。

母との時間を大切にしたいと思った。私が出家をとりやめることを話した時、「どこにも行かないで!」と泣いた母。二人で毎日のんびり(ダラダラ?)とすごした。でも、どこか不安。

高弟達が教団を離れるきっかけになったことは、インドでおこったある運動。私は彼らに会って同じようになる予感がした。この時はインドの詳しい話はなく、その運動について書かれた本を何冊か紹介された。早速読んで、やはり私もマインドコントロールから解放され変わった。そして、きっぱりと教団を離れ、信仰もやめた。

まずは本を次々と読んだ。読むだけでなく、体験してみたいと思い、運動を紹介していたヒーラーの開催するセミナーに参加した。次第に、インドに行かないことには、私の中では先に進めないと感じるようになっていった。

インドには半年後行くことになった。3週間の滞在。日本の山奥で一生を信仰一筋で生きようと思っていたことなど考えられない。夢の中のよう。

インドではほとんど施設内で、宿舎と講義室を移動するだけの毎日。生まれてからの自分の感情を十分に味わうというようなことをやっていた。私の場合、怒りや哀しみがいっぱい出てきた。そして、自分を変えようと思っても変えることができないことを知り、そのままの自分でいいことに気づくことになる。いろいろな体験があったと思うのだけれど、今はもうあまり思い出せない。

帰国後、仕事の話もトントンと進み、学校に再復帰した。男性を好きだという感情も自分の内側では素直に認められるようなった。ただ、セクシャルマイノリティーズの当事者でありながらトランスジェンダーとゲイとの違いも知らず、どこかにゲイに対する偏見も持っていて、情報を得ようともしていなかった。それが2年前のこと。

さらに解放されるには、もう少し時間が必要だったみたい(まだ、続く?)。

2008年11月29日 (土)

バード・ウォッチング

今の時季の楽しみはバード・ウォッチング。といっても、家の部屋の窓から庭木にやってくる野鳥をただ眺めるだけのもの。

今朝もモクレンと柿の木にメジロとヒヨドリがやってきていた。ボーッと見てるだけで癒される。

気持ちにゆとりがあるときは、目覚めたときに野鳥が来て鳴いているのを感じることができる。今年は余裕があるということか。

そういえば去年は忙しくて、野鳥をほとんど見なかったなあ。

学級担任ではないと勝手に思いこんで、産休代替の仕事を引き受けてしまったのだ。目まぐるしい毎日。担任した3年生の子ども達はかわいかったけど、私はあたふたしていた。家ではグッタリ。

そんな中でもおもしろかったのは、子ども達との「バード・ウォッチング」。でも、こちらは歌。音楽の教科書にあった歌で、振り付けもあった。簡単なステップだったけど、CDをかけながら家でも練習したよなあ。

私の踊りがその程度だから、子ども達もリラックスできたよう。のびのびとうれしそうに踊っていた。寒い音楽室だったけど、「じゃあ、バード・ウォッチングするよー」「やったー」といった感じで始まり、1曲歌い踊ると汗がじんわり。

何日か歌っているうちに、♪小鳥たちが(ヘイ!) 枝から枝へ(ヘイ!)~というように、自然と「ヘイ」のかけ声まで入れて、ノリノリになっていく子ども達。そんな姿を見るのが好きだったなあ。大変だったけど、楽しかったあ。

静かに野鳥を眺めながら、生き生きとした子ども達の笑顔を懐かしく思い出している。

みんなー、元気かー。

2008年11月28日 (金)

体育の先生

昨晩、風呂に入ろうとすると、お湯が少しぬるめ。湯温調整のつまみを確認して蛇口をひねり高温の湯を出そうとすると水が出てきた。

エーッ!故障?仕方ないので、ぬるめで我慢。

家のは電気温水器。弟の仕事の関係で取り付けた。弟は電力会社勤務。早速電話。秋の彼岸に帰省して以来だから、2か月ぶりくらいに話す。

事情を話すと、すぐに手配してくれるとのこと。弟をすごく頼もしく感じた。

元気?(家族)みんなは?ときくと、20才の娘の就職が内定したこと、高3の息子が大学の推薦がダメだったこと、でも本人は一般入試で頑張ると言っていることなどを話してくれた。

「お父さん、これからもまだまだ大変だなー。」と他人事のように言う私に、「(息子は)体育の先生になりたいと言っているので、夢を叶えてやりたいと思っている。」と、まじめな弟。

「シッカリ親してるねえ。じゃあ、よろしく。」と、お気楽な私。

弟との会話がうれしかった。なぜかなあ。これまでは自分は子どもを育てることもないと引け目を感じていたのかも。今は吹っ切れた感じかな。

「(あの甥が)体育の先生かあ。いいなあ。」

私が中3の時の体育の先生は、新任の若くてかっこいい先生だった。

ある日、一人で下校中の私。たぶんうつむき加減だったと思う。

「エト!」の声に顔を上げると、窓からその体育の先生の笑顔。「サヨナラー!」

うれしかったあ。声をかけてくれたこと。名前も覚えてくれていて呼んでくれたこと。今でも忘れられない。悩み多き年頃だったから、なおさら。

甥もそんな先生になってほしいなあ。

ところで、今日温水器の会社と電力会社の方が来て修理完了。今夜は熱い風呂に入れそう。

弟よ。ありがとう!

2008年11月27日 (木)

マインドコントロール

「のめり込みの道」の続き。

「世界平和は人々の健康から」という意気込みで料理研究家として活動していたが、「食が全て」という考えは、病気の人を「食事が間違っている」と裁き、自分自身も苦しくなっていった。もちろん私の「異常」なところは何も変化はなかった。そんな時、知人から1冊の本が送られ、1~2ページ読んだだけで「これこそ私が長年求めていたもの」と直感した。

信仰の道のはじまり、はじまり。

その本の著者だったある宗教教団の教祖が書いた本を読みまくった。ますます惹かれる。その教団の行事にも通うようになった。次第に料理への情熱は薄れていく。料理教室講師もレストランでの仕事も辞めてしまう。当時はそれを宗教という認識もしてなくて、「世界人類の魂の救済」をめざす真理の道ととらえていた。実際、お金を出さなければ…、勧誘しなければ…ということが全くなかった。集まっている人たちも純粋な人が多く、本当に大切なことを学んでいるという姿勢だった。

教団の施設は、俗世間?と隔絶した山奥にあった。自宅を早朝に出て、新幹線を利用しても、電車やタクシーを乗り継いで、やっとそこに昼過ぎに到着するというほどだった。毎月2回の行事に参加した。今思うと、時間と交通費のことを考えただけでも「よくもまあ」という感じ。

まだ知らない人が多い真理を一足先に学んでいるんだいう優越感?から、当たり前のことが見えなくなっていった。さらに信仰を始めて3年で、伝道講師に大抜擢される。10年20年と信仰を続けている方が何人もいらっしゃる中でのこと。その頃には、私の「異常」なところが「治る」という奇跡も既にあきらめ、信仰の道一筋に生きること、それが私がこの世に生を受けた意味、使命と確信していた。完全に自分自身でマインドコントロールしていた。それでも、出費が多いため学校の仕事に復帰し、自宅にいるときには日常生活も普通?に送っていた。

教祖から「出家」の話があった。即答「ハイ!」しかなかった。

学級担任をしていたので、一区切りする年度末まで待ってもらうことにした。その間に家族の説得。母は「あなたの好きなようにしなさい」と言ってくれた。兄弟は「理解できない」と。でも、実際そうなったら、認知症?の母は、兄の家に同居するしかないという話にはなった。

出家前2か月、教団内が混乱している連絡が入る。20年30年と出家して教祖と共に歩んできた高弟が全て教団を離れると。そして、教祖は私を後継者に考えていると。

眠れぬ日が続いたが、それでも「ハイ」しかないと思った。信じることのものすごさ。

数日後、高弟の一人から連絡がある。「こういう状況になってもエトさんの信仰一筋の思いに変わりはないでしょうが、私たちのことを伝えないではいられません。長年のマインドコントロールから解放された感じなんです。出家する前に私たちの話を聞いていただけませんか。」

何があったのかわからないが、みなさん信頼していた方々だったので、会って話を聞きたいと思った。

そして、何と私もすぐにマインドコントロールから解放された。自分自身で縛り付けていたことに気づいた。出家をとりやめ、教団からも信仰の道からも離れることに…。

まだまだ続く。

2008年11月26日 (水)

遼くん、かわいー!

子どもの頃から運動は苦手。走るのは遅く、球技もダメ。兄も弟もリレーの選手になったり、部活では野球をしたりしていたけど。

学校に勤め始めて、子どもの前では体育は「得意」で「大好き」のふりをしていた。高学年担任の時はごまかしがきかないので、そのままの姿を見せてたかな。

スポーツは観ることにも全く興味なし。

でも、スポーツ選手は好きだ。

ゴルフはやったこともないし、プレーには何の関心もない。それなのに、ニュースなどで遼君が出てくると、見入ってしまう。一人の時は「遼くん、かわいー!」と言うときだってある。

どこがいいのかなあ。

考えてみると、海外勤務中のO君の若い頃と似ている所があるからかな。そういえば、カチンときた若い先生も何となく似ているかなあ。

2008年11月25日 (火)

カチン!

学校では「てことつり合い」の学習中。今日は支点から作用点までの距離を変えて手ごたえの違いを調べる実験。大型のてこを使っている。

「前の方に実験のためのスペースを作るので、机を少し後ろに移動させます。それでは、静かに動かしてください。」

ガタガタガタ

横の方から突然担任の怒った声。

「今何と言った?」…「何と言ったか?」

(主語がない。)子ども達はキョトン。

「エト先生が何と言ったか?」…「静かに動かすように言ったぞ!」…

「ハイッ!音を立てないで静かに動かすっ!」

ガタガタガタの音は私の許せる範囲で、そんなに気にならなかった。

ただ担任の「言った?」「言ったか?」と繰り返す言葉にカチンときた。

(誰が言ったと言いたいんだよ。それを言うなら、「言われた」「おっしゃった」だろう。子どもの前でそんな言葉づかいするのか。)

担任は校内では一番若い20代後半の男の先生。バカにされたようで嫌だった。子ども達が敬語や丁寧語を使ってなくても、バカにされたと思わないのに、今回のような場合はイラッ。

私はこんなことに腹を立てるんだということに気づいた。年をとったからなのか、大人げないというのか、よくわからない。

でも、この若い先生、好きなんだよなあ。怒って大きな声が出ている時もたまにあるけど、それも若くて情熱的でいいし、普段はにこやかで穏やかな癒し系の人なんだよね。決して無礼でもなく、授業後は必ず「ありがとうございました」と、さりげなく私のそばに来て言ってくれる。

いやいや、それと今回のことは別かな。やっぱり私の中ではカチン!だな。

2008年11月24日 (月)

のめり込みの道

気功から食事・料理へと私はのめり込んでいった。

のめり込みがいつから始まったかというと、現在海外勤務中の(当時私が片想いだった)彼(O君)とN先生が結婚した頃に重なる。ちょうど父が亡くなった翌年でもあった。O君が私にN先生をすすめた飲み会の1年後、結婚披露宴で二人の姿を私は哀しい思いで見る。それから会ったのは半年後、私の自宅へ父の初盆に夫婦揃ってお参りに来てくれた。「ありがとう」と言って顔では笑っていたが、胸の内は複雑だった。

気功を始めるきっかけはO君がつくってくれた。中国に関心のあったO君の勧めで私は一緒に中国への旅をした。そこで習った太極拳。帰国後も二人で楽しく教え合いながらやっていた。職場が別々になっても私は続け、太極拳の奥にある気功に興味を示し、病気を治す気功師になることを夢見た。彼は中国語の勉強を続けた(今、台湾で日本人学校の教師をしている)。

O君が結婚してから、力が抜けたようになり、気功への興味も次第に薄れていった。そんな時、新聞のある連載記事に何かひらめき、食事・料理への道が始まる。そして、O君のことを忘れるように、のめり込んでいった。どうにかO君から卒業。

食事をかえることで自分の体調がよくなるばかりか、講師をし始めた料理教室では、お子さんのアトピーが治ったり、不妊症の方が妊娠したり、喜ぶ方がふえて充実感も味わった。でも、大事なことから目をそらすために、生きる意味を何か他のところで見出そうともがいていた。そして、もしかしたら自分自身の「異常」なところも「治る」かもしれないと、どこかで期待していたが、それは当然起こらなかった。

喜んでいただく方がいる一方、亡くなる方も何人もいた。私より若い大学病院の先生がご自身の末期癌の相談で来られたこともあった。1年後、新婚の奥さんを残されて逝かれた。周りにも自身のことにも限界を感じ、いつしか私は宗教的なものに惹かれていった。

今度は奇跡を求めて、信仰の道にのめり込むことになる。

2008年11月23日 (日)

親不孝!

「あなた、ホント親孝行の息子ねえ。」

今日も出がけに、車の中で母が私に言った。昼食は外で一緒にすることがほとんど。

隣の街にあるデパートのレストラン。ランチバイキングで量り売り。休日でも混んでないので、時々利用する。

食事が終わってトイレに行った母を待ちながら店内を眺めているうちに、タイムスリップ。

子どもの頃、月に1回、ここに来るのが楽しみだった。両親は夫婦二人で衣料品店をやっていて、定休日は第3日曜日だけ。兄と二人(弟は年が少し離れていて小さかったので家で祖父母と留守番だったように思う)、屋上の遊戯場で遊んだなあ、素朴なゲームで。その間、母はベンチで見守り(休憩?)。父は近くのパチンコ屋。

昼は最上階(4階)の広いレストラン。オムライス、スパゲティ、ホットケーキ、チョコレートパフェなどを食べてたかなあ。おもちゃ売り場は見るだけだったけど、歩いて回るのが楽しかったよなあ。

あれほど大きくて広いと思っていたデパート。今は全体を見回すことができる。屋上はかなり昔に閉鎖されたようだ。お客さんは中高年層がパラパラ。アーケード街も日曜日でも閑散。運転する人は郊外型のショッピングセンターに行くようだ。私もそうだけど。

15年前。父が私に、結婚しない理由をしつこく問いただしていたときのこと。兄も弟も所帯を構え、親になっていた。父は私も一人前?にし、親としての務め?を果たしたいと思っていたのか。

あまりにも執拗な父に、もう少しで「実は女性を好きになれない」と勇気を出して言うしかないかなと思っていた。でも、やはり言えない。沈黙の後、父が突然「お前、女嫌いか?」

「いや」と首を横に振ることしかできなかった。

「なら、どうして?」と説教口調は続いた。最後に言われた言葉「R(兄)もK(弟)も仕事に家庭によくやっていると思うぞ。それに比べて(結婚もせず自由気ままな生活を送っている)お前は親不孝!だ。」

半年後、父は健診で胃癌(本人に告知なし)が見つかり手術。術後の経過が思わしくなく、その1か月後に亡くなった。

父から言われた「親不孝」の言葉、傷が残った。母が私のことを「親孝行」と言うたびにも思い出していた。今はその言葉を聞いても、痛みはしなくなったが、傷跡は消えてないかな。

2008年11月22日 (土)

誕生日プレゼント

週に1~2回、ショッピングセンターに食材の買い出しに母と行く。今日は、いつものにプラスして誕生日のプレゼントも買った。

誰の誕生日プレゼント?

自分の…?。誕生日が過ぎて3週間になるけど。

母から誕生日にお祝いのお金をもらっていた。母は私が何才になったのかはよくわからないが、誕生日は今のところシッカリ覚えてくれている。「何かしないとねえ」と何日も前から何度も言うが、どうしていいかわからないので、私が「1万円ちょうだい。それで自分で好きな物を買わせてもらうからね。」と言って受け取っていた。

70代の母は数年前から認知症?でアルコール依存症?。病院にはかかってないので、たぶん…ということ。症状は緩やかに進行しているが、自宅で二人暮らしを続けている。私は怒ったり笑ったりしながら、母の好きなようにさせている。

そうなる前までは、私が結婚しないことを気にしていた母。私が若い頃は見合い話を持ってきていた。それでも断り続けるうち、私も年をとり話も来なくなる。次は「あなたがいいと思う人なら誰でもいいから、連れていらっしゃい。再婚の人でも、子連れの人でもかまわないから。」「あなた一人残すのは心配で、死ぬに死ねない。」とまで言われていた。

今はというと、「あなたがそばにいてくれるから、私は幸せ!」と、毎日言ってはうれしそうに微笑む母。「これでいいんだよね。」と私は自分自身に言い聞かせている。

ところで、特に欲しい物が見つからず、買うのが延び延びになっていたプレゼント。

今日CD4枚を買った。おつりが少しあったので、職場で着る安ーいトレーナー(仕事着)も買う。

槇原敬之『Personal Soundtracks』

flumpool『Unreal』

関ジャニ∞『無責任ヒーロー』

木山裕策『WAIT FOR YOU 今の僕に出来る事』

「お母さんからもらった誕生祝いで買わせてもらったよ。ありがとう!」と母に見せると、「どういたしまして。」と母。

母が健在で私の誕生日も覚えてくれていることは有り難いことだけれど、欲を言えば、「誰か一緒に祝ってほしい!」

2008年11月21日 (金)

38才!

5年生のあるクラスの授業後、男児数名が近寄ってきた。

A「先生、何才ですか?」

「ひみつ。…何才と思う?」

B「うーん、38才!」

C「39才!」(いくつものキラキラまなざし)

(ニコニコしながら)「ひみつ!」(次の授業があるため、そこまで)

教室を出てからも、一日中、何かうれしい。

職員室では今日も教務主任が老眼鏡のことでしゃべっていた。

私も気持ちは20代?だけど、ここ数年は老眼・白髪・抜け毛・身体を使った翌々日にこわばりがやってくることなど、正直老化を感じている。

相手が子どもとはいえ、今日のように実年齢より若く言われて、幸せ気分を味わえた。

それに、週に3時間しか接することのない私に興味を持ってくれたこともうれしい。これまでの経験からすると、担任をしていたら、子ども達は親近感の度合いによって「家はどこ?」に始まり「何才?」「子どもは?」「奥さんは?」「恋人は?」といった順で大体尋ねてくる。これは第2段階に入ったということかな?

去年は産休(育休)代替で年度途中から3年生を担任していたが、「何才?」に対して、平然と「25才!」と答えていた。普段の会話(自分の子どもの頃の話や教え子が先生になっている話など)から、すぐに嘘はバレバレ。「ホントは何才?」「25の反対の52才だと思う。」(おー恐っ、かなり近い)となったが、「修了式まで秘密」ということにしておいた。

最後の日、黙っておこうと思ったら、

「先生、今日はホントの年を教えてくれる(約束だった)よねえ。」(しっかり覚えてくれていた)

ホントの年をばらすと、

「やっぱりウソだったね。」で、笑っておしまい。(かわいい!)

今度は25才は無理だとしても、「38才」あたりで楽しめたらいいなあと思う。

2008年11月20日 (木)

鼻の中に冷気が

昨日今日と寒さが厳しい。私の住む西の方でもニュースの話題は、寒波到来、初雪、初氷…。家でも今朝ゴミ出しをしていたら、屋外のゴミ箱の蓋にも氷が張っていた。

朝一番、外に出て感じたこと。鼻の穴から入っていく空気の冷たさの心地よさと晩秋?の香りに「何かいいなあ」と。しみじみ、うれしくなった。

子どもの頃から万年鼻づまり(たぶんアレルギー体質)。小学生の時には手術までしたが治らなかった。それが、30代前半、ある健康食事法と出会って少し続けていると、いつの間にか鼻の通りがよくなっていた。それまでは鼻がつまっていたんだということがようやくわかった次第。もう、感激!一気にのめり込んだ。この感激を人にも味わってほしい、伝えたい。

毎月東京のクッキングスクールに通った。そのうち学校勤めも辞め、専念。師範コースまで修了し、料理研究家(自称)となる。料理教室の講師をしたり、レストランでメニューを考え調理したり、病院からも見放された人の相談にものったり…。

私の人生、のめり込むものがコロッコロッと換わっていった。料理の前は、気功だった。

今になって思うこと。どうにかして自分を変えたかった、「治したかった」みたい。

思春期、自分のこと〈「性的指向」)について、事典か何かで調べていて目にした「異常」「倒錯」「変態」の言葉。誰にも言わずにおこうと決め、それ以上は情報を得ようともせず、避けて通ってきた。それが、ついこの間までのこと。

どこかで「治る」ことを期待し、外側に求めてきた。今だったら笑える話だけどね。

そして、のめり込みは食事・料理から次へとまだまだ続く。

鼻腔の中の冷気に喜びを感じることができたのも、長い間の思いこみから解放されたからかもしれない。

2008年11月19日 (水)

なるようになるでしょう

来年度の講師登録の志願書を今月中に書いて出すように言われた。もうそんな時期?

職歴欄を書いていて疲れた。

教職に復帰して5年。8校に勤めていた。長くて1年、短い時は1か月。非常勤講師を希望していても話があるのは常勤の学級担任だったりして…、慎重に考えればいいのに勢いや勘違いで何でも引き受けることが多かった。今年度はしばらく休むつもりで登録さえしてなかったのに、今のご時世としては珍しく人材不足のようで、ひょんな所から次々と声がかかり、既に4月から2校目に勤めている。

復帰前の職歴も合わせてみると、よくもまあ転々と、我ながら…?。

でも今振り返ると、どれもおもしろかったなあ。

このような人生、扶養家族がなかったからできたのかもしれない。よく「自由でいいねえ」と、うらやましそうに言う人がいた。私も「うーん、いいよー」と強がっていたけれど、裏で孤独の淋しさを味わってきたことをみんなは知らない。

さあ、新年度はどうなるのでしょう。まあ、なるようになるでしょう。楽しみにしておこうっと。

2008年11月18日 (火)

丸つけ

仕事は休みの日だけど、日中は昨日実施したテストの丸つけをしていました。90人分。記述式の問題が多かったので、いやあ、大変でした。

今の仕事は、週3日だけ、それも午前のみの半日勤務。でも、家に持ち帰ってする仕事も多いんです。最初は学級担任の補助的仕事をしてもらうという話でした。ワークプリント作りや教材準備の手伝い、担任が指導する授業で個人指導場面をサポートする…などでした。

引き受けると、話が変わっていったのです。3日とも5年生3クラスの理科の授業があり、それらを任せられてしまいました。空き時間は1時間。授業(実験)の準備や後片付けなどをしていたら時間がなくなり、残りは家へ持ち帰りです。教材研究・教材作り、ノートの点検、テストの丸つけ…。

慣れるまではハードでしたが、6か月が過ぎ、今は大変なりに楽しみながらやれるようになっています。

テストの丸つけと言えば、学期末は何教科(何枚)も重なって、ウンザリでした。

ずーっと若い頃の話。

最初の勤務校で5年間一緒だった同僚(友人?)と声をかけ合いながら、丸つけをしていたなあ。彼のアパートに行って、夜遅くまで。楽しかったなあ。

より親しくなると、彼の趣味に影響されて二人で語学短期留学もしたよなあ、2回も。

彼は5年間ずっと恋愛の話をすることがなかったので、私にとって居心地がよかったように思う。でも、人事異動でバラバラになった後、一緒だった時の職場関係の飲み会の席で、彼が私の好きなタイプをきいてきた。あやふやな返事をしていたら、その当時の職場の中で「誰がいい?」という話にまでなった。さらに、「(若い)N先生なんてどう?」っていうことに。N先生も近くにいて、私が軽く「うん、N先生いいよねえ」と言うと、彼が仲を取り持ってくれると言い出しビックリした。実際には話はそれまで?で、具体的な進展はなかったのだけれど…。

1年後、突然彼とN先生の結婚披露宴の招待状が届くことに。

今だから素直に認められること。

私は彼のことが好きでした。N先生と結婚することを聞き、ショックでした。

今?

彼とは、たまーにメールのやりとりをします。近況報告程度ですが。

彼は、若い頃からの夢だった海外日本人学校に勤務中。3人の子どもに恵まれ、奥さん・家族と異国で幸せに暮らしているんだとさ。めでたし、めでたし。

現実に戻って、夜は明日の授業の準備だあ。

2008年11月17日 (月)

生まれ変わったら

教務主任の先生(たぶん私と同世代)が(たぶん)30代の先生と話していた。

若い頃は、年輩の人が老眼鏡を頭にかけたまま忘れて探しているのを見て笑っていたが、今は笑えない、ようくわかると教務主任。(30代にも)すぐにそうなるから…とニヤニヤ。

まだまだそんなことにはならないから…と、突っぱねる30代。

教務が私の方を見て振ってくる。「その眼鏡は(ひょっとして)?」

「(もちろん)老眼鏡」(私)

「(だったらこの気持ち)わかるよねえ。」(教務)

微笑んで、うなずく私。

ようくわかります。でも決して悲観的ではないのですよ。この年になったからこそしみじみと味わえることもふえてきたのです。

今日は、特に銀杏の葉の黄色が「きれいだなあ」と感じました。今までは、これほどまでに美しさを感じなかったなあ。(上品編)

思い出も美しく脚色し、想像して楽しんだりするんです。

ある小学校のそばを車でよく通ります。今日も通りました。「(高橋克典似の先生)T君、元気かなあ。」

数年前、1年間同じ学校に勤めたことのある1つ年下の先生。今は教頭先生に。

ある日、こんなことを言われたんです。

「俺、エト先生のこと、好きです。生まれ変わったら一緒になってくれますか?」

「(ドキッ、エッ?…素っ気なく)ハイ。いいですよ。」

他の職員もいる前で、冗談だったのですが、うれしかったなあ。

また、別のある日、休憩室で二人きりになったとき。

「エト先生、俺、マッサージ上手いんですよ。」と、いきなり後ろに回って肩や背中を揉んでくれたよね。気持ちよかったなあ。ちょっと興奮、でも平静を装っていました。

あー、おもしろい。(妄想編)

2008年11月16日 (日)

ただ聞くだけで…

昨年3か月勤めた学校で一緒だった先生から電話があった。

「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど、今いい?」

あと1年半で定年退職になるベテランの女先生。私が学校をかわってからも相談の電話が時々ある。

今日は転入してきた子どものことで落ち込んでいるという話がメイン。「こんな場合、どうしたらいいと思う?」と意見を求められたので、「話を聞いた限りでは、~した方がいいと思うけど…」と答えると、「ふうん」と曖昧な返事の後、別の話題にスルッとかわった。

次は最近あった行事のことでちょっとしたトラブルがあり、職場内の人間関係がギクシャクしていること。今度はずっと聞くだけだった。一方的に話し終わるとスーッとされたようで、「エトさんの方はどう?」

「ボチボチやってます。」

「うん。じゃあねー。またねー。」と明るい声で電話が切れた。

まあ、お役に立てたようでよかった。ただ聞くだけでいいんだよね。

でも、私は困ったとき悩んだとき、これまで誰にも相談してこなかったなあ。悩みを打ち明けるなんてできなかったなあ。

2008年11月15日 (土)

かたらい喫茶

車を車検に出しているので、今日は夕方まで家にこもります。1日ぐらいいいかなと思い、代車も頼みませんでした。

昼食は近くの図書館の一角にある喫茶スペースまで歩いて行き、ピザトーストセットを食べてきました。そこは今年の5月にオープンした「かたらい喫茶 トロッコ」。初めて行きました。

週2日、お昼時のみの営業。地元に住む知的障がいのある若者と家族、支援者で運営しているようです。私が出かけたお昼前にはお客さんがいなかったのですが、途中から図書館帰りの親子や隣接する生涯学習館で研修を終えた御婦人方でいっぱいになりました。

ピザトーストのパンは厚切り、コーヒーは大きめのマグカップにたっぷりで、400円。味もまあまあでした。注文伝票の書き間違いや会計時には電卓の打ち間違いで時間がかかりましたが、支援者の方も見守りながら手助けする姿勢で、微笑ましいものがありました。

マイペースでいい感じだったけれど、私はもう行かないなと思った。

なぜかなと考えた。

私にとって気にかかることが多くて、食事そのものを味わえなかったようです。

私は数年前まで小さなレストランで3年間働いていたことがあります。また、去年の1学期に勤務した学校では特別支援学級で障がいのある子たちを担当していました。それらの経験から「私だったらこうするのに…」「もっとこうしたらいいのに…」と、いろいろ考えていたのです。

でも、いい社会見学、体験になりました。当事者の姿が見えること、彼らや家族の思いや願いを発信していくことは大切なことだなと思いました。

ようし、車が帰ってきたら出かけるぞー。

2008年11月14日 (金)

月明かり

今朝5時に目覚める。

ほんのり朱い窓辺を見ると、満月が。

「きれい」

まんまるで、暗闇を照らす光。

大昔の記憶がよみがえってきそう。

どんなことを願ったのだろう。

そして、今。

「隣に誰かいてほしい」

2008年11月13日 (木)

デビュー

地方の田舎に住むセクシャルマイノリティーズの一人です。

自分自身の性的指向を認められるようになって、まだ3か月。

今まで表現できなかったこと(引き出しの奥に隠していたもの)を少しずつ吐き出していく(陽に当ててていく)ことができたらいいなあと思い、このブログを始めました。過去のことも織り交ぜながら、気軽に日常を綴っていきたいと思います。

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