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2008年12月

2008年12月31日 (水)

運そば

年越しそばのことを当地では、「運そば」と言う。ネットで注文していたおせち(真空パックになったやつ)が昨日届いた。中にそば(乾麺)とつゆも入っていた。

先ほどゆでて母と二人で食べた。今日雑煮の準備をしたので、その具材を入れて。

子どもの頃は、夜遅く運そばを家族揃って食べ、十二時になると裏山の神社にお参りに行っていたなあ。

食べる前に私からの挨拶(コント風に)。

「今年も健やかなお母様といっしょに、運そばを食べながら年を越せることを嬉しく思います。この一年、お世話になりました。新年もよろしくお願いします。」

「こちらこそお世話になりました。私もエトさんといっしょで幸せです。」と母の明るい返事。

まじめに言うと言葉にならないかもしれないので、仰々しく言ったけど、これは本心。内心しみじみとおいしく運そばを味わうことができた。

そばといえば思い出すこと。

学校を辞めて料理の勉強をしている頃、自然農の会などにも参加した。そこでそば打ちの職人さん(Sさん)と知り合い、2年くらいにわたって手伝ったことがある。Sさんは出張でそば打ちやそば道場などをなさっていて、一人では手が足りない時には私に声がかかった。年末は年越しそばのそば打ちで大変だったなあ。私は粉の計量や「こね」専門で、手が痛くなるほどこねたなあ。

いっしょにそば料理の仕事をしないかとSさんに何度か誘われたけれど、私が料理教室やレストランの仕事が決まり忙しくなるとともに、足が遠のくことになりSさんにも5年以上会ってなかった。

今年の夏、Sさんの元奥さんから手紙をもらった。春にSさんが亡くなった(たぶん病気で突然だったらしい)という知らせだった。まだ五十代だったと思うけど…。そば打ちの体験をさせてもらえて楽しかったなあ。

運そばとともに、Sさんのことや当時の出来事も思い出す大晦日。

2008年12月30日 (火)

泣ける

「子どもの頃からあなたは根性があって(意地が悪いという意味も含む?)、グッとこらえて泣かなかったよ。」これは母の言葉。「何でも自分でする手のかからない子だった。」ともよく言われる。

今でも、それを聞くといい気はしない。自分では決してそうではなかったと思うのだけれど、周りから見ると、そうだったんだろうなあ。

確かに人前では泣かずに一人で泣いていたかもしれない。親に甘えることもあまりしなかったかも。

最近は年のせいか、よく泣くようになった。テレビのドキュメンタリーやのど自慢で泣ける。でも、まだ母や兄弟の前では泣かないかな。

学校でも子どもの前で泣くことがある。以前は泣くのは卒業式だけだった。今はいつその時が来るかわからない。お別れの時でも泣く時と泣かずに笑って「さよなら」する時がある。どうしてそうなるかはわからない。

産休中の先生からの手紙を代読した時、子ども達が一所懸命歌っている姿を見た時、道徳の副読本のお話を読み聞かせていた時…、なぜか思わず泣いてしまった。

自分の中で「泣くこと=恥ずかしいこと」が薄れてきたのは確か。それに「男は泣くもんじゃない」幻想もあったのかな。泣いたら「男」として認められない、知られたくない正体がばれるとでも思っていたのかなあ。

これからも泣ける時は我慢せず、大いに泣いて感情を表出していきたい。

2008年12月29日 (月)

中国からの転入生

正月を海外で迎える人もいるが、私も2回ほどそういうことがあった。今から十数年前。行き先は中国。冬休みを利用して10日ほどだったかな。片想い?だったO君(「丸つけ」「のめり込みの道」で登場)といっしょ。大学の語学短期留学だったけど、実際は中国語講座と観光がセットになったようなもの(あくまでも私の感じ方)。

当時私はO君のことを一番親しい友人と思っていた。既に独学で中国語を勉強していた彼からの誘いがあって短期留学が実現したのだけれど、中国行きに至る理由は他にもあった。

その1年ほど前のこと、4年生を担任していた時、中国から転入生が来ることになった。日本語が全く話せない女の子。おばあちゃんは日本人で中国残留婦人。他の担任4名は皆渋り顔、結局私の学級に入ることになる。

前例がなく学校全体が手探り状態。両親とも中国語しか話せないので、家庭での会話も中国語。

初日、彼女が友達の前でした挨拶。「こんにちは。私の名前はNTです。よろしくお願いします。」おばあちゃんから教わって何度も練習したんだろうなあ。でも話せる日本語はそれだけ。

おばあちゃんが毎日付き添い、NTちゃんの横に座り、私の話を通訳するという形でスタートした。1か月後、いつまでも通訳していたら日本語を覚えないだろうということで、一人で登校することに。私はできるだけ話の中に身振りをとり入れたり、漢字で書いて説明したりしていった。もっとコミュニケーションをとりたいと思い、中国語教室に通い始めたのもこの頃、O君といっしょに。

ところが、私が中国語を覚えるより、彼女が日本語を覚えるスピードの方がずっと速く、中国語でコミュニケーションをとる必要はなくなった。でも、O君といっしょにいる時間はとても居心地がよかったので、短期留学を共にするまでになったわけ。

1年目は厦門(アモイ)、2年目は北京。

北京から帰って、6年生になったNTちゃんに日本語で「冬休みに北京に行ってきました。」と言うと、彼女は「(驚いて)そうですか。私は北京に行ったことはありません。(少しうらやましそうに)」と、その頃にはしっかりと日本語の会話ができるようになっていた。中国は広い。彼女は湖南省の出身で、上海経由で日本に来ていた。

卒業以来、NTちゃんに会っていない。去年、彼女を6年生の時に担任していた元同僚に久しぶりに会った。彼女は、中国で通訳の仕事をしているらしい。

「将来は中国と日本の架け橋となるような仕事がしたい。」と聞いていたけど、実現させているんだよね。すごいなあ!

2008年12月28日 (日)

鏡餅

かなり手抜きをしながら新年を迎える準備をしている。今日は鏡餅を床の間と神棚に飾った。といっても、プラスチックでできた中に小餅が入ったやつを買ってきて置き、付属の飾りをつけただけのもの。

正月には兄一家、弟一家が我が家に来る。叔父や叔母(亡くなった父の弟、妹)も来るかも。仏壇があるので、盆・正月・彼岸などには形だけは整える。信仰一筋の道を終えてからは特にこだわりもないので、簡略化しているけれども、それでも一人で準備するのは結構大変。

お歳暮、おせち料理、年賀状、お年玉、掃除、買い物…。

料理の仕事をしている時は、研究も兼ねておせちも作っていたけど、今はネットで注文。雑煮だけは作る予定。

母はほとんどノータッチ、というかできなくなっている。私に任せっきり。まあ、仕事はマイペースで進めやすい。でも、ある程度形にして母に見せておかないと、落ち着かない様子。だから、何でもやめてしまうわけにもいかない。

大変だと言いながらも、仕事が休みなので時間的に余裕があるし、楽しみながらやっている部分もあるかな。

明日は甥(兄の子)と姪(弟の子)の成人祝いの準備。

2008年12月27日 (土)

田舎暮らし

あー、鬱陶しい!

静けさ、きれいな空気、豊かな自然。私の住むところは、いいところ。でも、田舎独特の人間関係は好きになれない。

夕方前、母と外出していて帰宅すると、隣に住むじじぃと隣の畑で野菜作りをしているじいさんが家の柿の木を大胆に切っていた。向かいに住むじいさんがそれを眺めていた。

エッ、何?黙って、そんなことする?それも家主がいない時に。

確かに枝は隣の畑まで伸び、邪魔になっていたかも。柿の葉や実は向かいの敷地にも落ち、じいさんが掃除していたので大変だったかも。

そこで、若手?の私の方から「どうかしましたか?」って声をかければいいのでしょうが。見えてなかったことにして家に入った。

結局、何の一言もなかった。あー、腹が立つ。

田舎といっても近所に農家は一軒もなく、ほとんどが年金生活の高齢者。隣組の助け合い?が形だけ残っている。年数回の清掃日には出なかったら後が大変。不幸事の時も暗黙の内に男手と女手が出ることに。今はセレモニーホールとやらで葬儀をするので人手はそんなにいらないのに、大勢顔を出して動きまわる。

市のお知らせなども未だに回覧板でまわってくる。急いで目を通してまわさないと、どこで止まっていたのかと言われる。

あー、嫌だ。

こんなことがちょこちょこあるけど、私が生まれ育ったここは、それ以上にいいところがいっぱい。

今日のことは日記に吐き出したので、明日はケロッとして対応できそう。

2008年12月26日 (金)

ネズミとり

1か月くらい前から、ガリガリガリ。ネズミが棲み着いたようだ。

2週間くらい前からは子ネズミの姿がチョロチョロ。見た目はかわいいけれど、このまま増えていったら大変!

かなり前に母が買っていたネズミ駆除用の薬があったので置いていたが、食べてない。効き目なし。

昨日ホームセンターでネズミとりを買ってきて置いてみる。昔ながらの金網でできた捕獲器じゃなくて、ゴキブリ○イ○イを大きくした粘着式のやつ。

早速今日、子ネズミが1匹かかっていた。そのままゴミ箱へ。

少し胸が痛んだ。でも、「ネズミ=伝染病」というイメージがあって、恐いんだよね。自分に仕方ないよなと言い聞かせながら、ネズミの姿を見ないようにして…。

数年前、料理研究家(自称)時代、完璧な菜食をしていた時期がある。もちろん作る料理にも肉や魚は使わなかった。さらに、信仰一筋の時代が重なった時には、食生活以外でも殺生を一切しなかった。ネズミは棲み着かなかったけど、蝿や蚊、ゴキブリも殺さなかった。そんな私のいない所で、母がたたき殺していたようだけど…。今思うと、殺生しないといっても、自分で手を下さなかっただけで、殺生なしでは生きていけないんだけどね。

今? 自分で調理する時は菜食に近い。でも、給食の時は何でも食べるし、頂き物や外食では気にせず食べられる。今年は蝿やゴキブリは少なかったけど、蚊にはよく刺されて、腹を立ててパチンとやっていたよなあ。そして、今回のネズミ。

できるだけ殺生はしたくないけど、こうあるべきだと決めることなく、その時々の感じ方を大切にして生きていきたいなと思った。

ネズミさん、ごめんなさい!

2008年12月25日 (木)

年賀状

大急ぎで年賀状を仕上げた。昨日は母の分、今日は自分のやつ。

今回は年が明けてからゆっくりと手書きしようかとも思ったが、それも嫌になった。そこで、住所録作りから印刷までパソコンで一気に、ちょこっと手書きもして…。

前の賀状を引っ張り出してきて、準備。読み直していると、いろいろと思い出す。

最初に学校勤めをしていた時の同僚。料理教室の講師をしていた時の生徒さん。信仰一筋時代の信者さん。友達からは少ない。友人は数少ないから。

そして、教え子。1年前は3年生を担任していたので、「3学期もがんばります。よろしくお願いします。」とかわいい文字や絵。でも、当時は大変だったよなあ。

最初の教え子は、もう30代。お父さんやお母さんもいる。我が子の写真入りも多い。

結婚披露宴にも呼んでくれたよなあ、こんな私を。3年前は主賓の祝辞を依頼された。結婚してない私が、何を話したかなあ。

中には、結婚、出産、離婚、再婚、離婚を経験した女性もいる。去年勤めた学校に、その子が通っていてビックリしたなあ。

♪人生いろいろ~じゃないけれど、みんなそれぞれなんだよねえ。私もそうなんだけど、明るく苦労知らずを振る舞っている人もいるんだろうなあ。

年賀状を出した後も、みんな元気かなあと一人一人のことを思っている。

2008年12月24日 (水)

ケーキの思い出

子どもの頃、ケーキを食べることができたのは年に数回。子どもの誕生日とクリスマスイブ。今のような生クリームのケーキじゃなくて、表面がパリパリコーティング、クリームは固くてポロッととれるやつ、砂糖菓子の飾り付き。でも、滅多に食べられなかったのでおいしかったなあ。

もう一つ、ケーキで思い出したことがある。

私が住むところは旧産炭地。幼い頃に閉山となり、炭鉱の盛んな時の記憶はない。小学生の頃、私が通った小学校では、2学期の終業式(クリスマスイブの日)に全校児童にクリスマスケーキが配られていた。どなたかが贈ってくれているという話だった。当時は500人はいたと思うので、相当な数になる。いただく子どもの時は一人1個だから、「やったー」という程度で何も考えなかったが、贈り続けた方のことを今思うと、ただ「すごいよなあ」。

ハッキリと覚えていないが、遠く離れて暮らされている当地出身者の方々が、故郷の子ども達に美味しいものを食べさせてほしいという願いから贈られたものだったように記憶する。炭鉱の閉山とともに故郷を後にされた方だったような気もする。

あれから○十年。今頃になって、その有り難さを感じている。想像だけど、贈った方も決して裕福ではなかっただろうに、見ず知らずの子ども達にプレゼントをくれるなんて…。そのことを思い、心が温かくなった。

今年のクリスマスイブも自宅で母と二人、いつもと変わらない夕食。小学生の頃のケーキを思い出したことが、私へのクリスマスプレゼントかな。

2008年12月23日 (火)

職場の飲み会

焼き肉屋で忘年会。5月から勤めている職場だけれど、飲み会には昨夜が初参加。

非常勤勤務のため、普段は他の職員との交流もほとんどなし。これまでは「行っても話が合わないしなあ」ということで不参加に○。いつもお知らせが回覧でまわってきて○印をつけるだけ。今回はお気に入りの若い先生(「カチン!」君)が幹事で直接声をかけてくれた。日時と会場の希望をきかれただけなのに、少しでも気にかけてくれたことがうれしかった。「いつでも、どこでもいいよ」と答え、カチン君が幹事なら行ってみようかなという気になったわけ。

席はくじ引き。残念ながらカチン君は幹事組だけで別テーブル。私のテーブルは他に4名の同世代の御婦人方(俗に言うおばちゃん先生)。

やはり話が合わない。聞くだけでも疲れる。話題はまず病気のこと、健康のこと。続いて我が子のこと、学費、就職、結婚相手…。延々と共通話題で盛り上がる。

次々に食べ、飲んでいる時はまだよかったが、腹一杯になると間が持てない。天井を眺めたり、非常口の誘導灯のマークには人影があるんだなとジックリ見たりしていた。

こんな時席を移動すればいいのだろうけど、それも苦手。親しい人もいないし…。若い頃はお酌をしてまわったりもしてたけどなあ。「誰か声をかけてくれー!」結局誰も来なかった。

カチン君たち幹事組は、会の進行やゲームの世話などに忙しそう。

3時間ほどしてお開き。二次会に行く人たちから酔った勢いで親しげに誘われた。カチン君もたぶん行くだろうからと期待してついて行く。

飲み屋街のスナック。カチン君のそばには行けないまま。話しかけることさえできなかった。近くに座ったのは、校長先生に用務員のおじさん。

ここでの校長先生の言葉はうれしかった。用務員のおじさんに私を紹介。

「エト先生は限られた時間の中で、計画的によくがんばってくださっているんですよ。他の学校もエト先生に来てもらいたかったみたいだけど、うちの学校がちょうどタイミングよく声をかけ、来ていただくようになったんです。ありがたいですよ。」

用務員さんも私のことをよく見てくれていた。

「花壇で朝顔の世話をされていて、きれいな花が立派に咲いていましたよ(花のつくりの観察のために栽培)。運動場の隅(小山)にも何か作っていらっしゃいましたねえ(流水のモデル実験の準備)。話す機会はないけど、今度は何をされているんだろうといつも見ていますよ。」

認められると、素直にうれしい。期待していた(カチン君と話す)ことはなかったけど、まずまずの「忘年会」Ⅱとなった。

2008年12月22日 (月)

リポーター

商店街を歩いていたら、カメラを担いでいる人たちが見える。何かの撮影?近づいて見ると、ローカルのテレビ番組で見たことのあるオジサンの顔。あっ、あの情報番組の「みんなの○○ソング」のコーナーか。

リポーターの人たちも仕事とはいえ、大変だよね。派手な衣装に人の良さそうな明るい笑顔。でも、実は…?

数年前、料理教室やレストランの仕事をしているときのこと。当時地方では内容が珍しかったのか、ローカルのテレビ局からの取材が続いた。目の前にテレビで見ていたリポーターやアナウンサーがいる。おー、すごい!美人リポーターや若くてかっこいいアナウンサー、おもしろいオジサンリポーター。

でも、ビックリ。みなさん、テレビで見るイメージと違って、静かで控え目で目立たない。しゃべりもやや低い声でさえない。ところが、カメラが回り出すと一変。華やかな表情に変わり、声も高くてよく通る。そこがプロ。仕事ということだろうね。すばらしい!けど、大変だろうなあ。

そういう私も今の仕事では、自然と使い分けている。子どもの前で話すときは、ハッキリとした張りのある声になってるかなあ?服装なども普段は地味な色だけど、子どもの前では明るい色や淡い色に着替えているし…。

もっとすごいことがあった。同性愛者であるということを隠してきたこと。もう演じることに慣れてしまって、辛いと感じることもほとんどないけど、よくやってるよなあ。やはり、これも自分で褒めるしかないかあ。

2008年12月21日 (日)

体験がない

2度目のゲイバー。1週間前と同じ所に行った。

1度目も緊張しなかったけど、昨夜はさらにリラックス。

1名は前回いらっしゃった方で、後は初対面の方々。年齢もタイプもさまざまで、私がゲイに対して持っていた固定的イメージがまた少し崩れることになった(いい意味で)。

嫌だったことが一つ。

私のことを紹介するときに「男も女も体験がない」人と強調して言われたこと。新しいお客さんが来られる度だから、何回も。

「(それは)言わないでくださいよ」って、小声で笑いながら言ったけど、おかまいなし。ホントは怒って「やめろー!」と言えばいいんだろうけどねえ。長年の生き方はそう簡単には変わらないもの。

信じられない人が多いと思うけれど、「体験がない」ということは事実。私がすましていたので、冗談だと思っていた人もいたみたいで、笑っていた。

自分の内側では(嫌だなあ、腹が立つなあ。)という怒りがあることを認められたので、大丈夫。

まあ、今のところリアルにゲイの人たちと交流する場を他に持ってないので、また行きたくなったら行けばいいな。ちょっとテンションが下がったよ。

2008年12月20日 (土)

プラス6時間

5月から週12時間だけ働いている。基本月・水・金の週3日、半日勤務。現在の家庭事情からすると、ちょうどよかった。4月までの常勤から比べると収入は激減だけど、母の介護や家事があるので、仕事も家のことも無理なくできる今の勤務時間がいい。

昨日母がおもらしして大変だったとき、校長先生から1月からの勤務についてたずねる電話があった。県の教育予算の関係で3学期は週18時間勤務が可能ということだが私の意向はどうかというもの。私が持ち帰りの仕事が多いこともわかってくれていたようで、その分1日あたり2時間をこれまでより長く勤務して学校で仕事をすればいいのではないかという好意?

でも、昼過ぎに私が帰るのを母は幼子のように待っている。持ち帰りの仕事があってもかまわない。収入が増えなくてもいい。母本人が望まない施設に預けてまでして仕事のことを優先したくはない。

本音を言うと、在宅での勤務(時間)が認められるといいのだけれど…。家での仕事が増えると、教材作りの材料なども自分で買いそろえ、費用も自己負担になることが多いし…。

だからといって、他に適当な仕事があるわけではないので、プラス6時間はお断りし、今のままで続けさせてもらおうと思う。月曜日に返事をする予定。

2008年12月19日 (金)

子どもがいれば…

夕方前、母と買い物に出かけたときのこと。

母を車に乗せたまま買い物を済ませて店の外に出ると、母が車から降りてウロウロしている。どうしたの?ときくと、トイレを探していると言う。

そこは広い駐車場の端にトイレがあるので、車に乗せて急ぐ。少し匂う。もらしている、大の方のようだ。

「もれてるかもしれないので、紙でふいておいでよ。」

すぐに出てきた母、「大丈夫だから、早く家に連れて帰って!」様子がおかしい。

車の中は強烈な匂いに。帰り着くまで20分以上はかかる。臭い中でいろいろ考えた。

祖母(母の母)は、もらして家の中を汚した直後、特別養護老人ホームに行くことになったよなあ。母も認知症が進んで、家での介護が難しくなるのかなあ。

いやいや、先の心配はしないことにしよう。

子ども(赤ん坊)がいれば、臭いと言ったって生理現象なんだから、こんな匂いは日常のことなんだろうけどねえ。勤務先(学校)でも、おもらしの場面には数えるほどしか立ち会わなかったしなあ。こんな私も母におむつを替えてもらっていたのだろうしねえ。当時は紙おむつなんてない時代、大変だったろうなあ。

帰ってからの着替えが一仕事だったけど、まあ、よし。援助が必要なところが増えたということで、気をつけておこう。

着替えが済むと、母は疲れたのか、即「おやすみなさい!」だって。

2008年12月18日 (木)

シャンプー

シャンプーを昨日から替えた。ネットの広告で気になっていた「インディアン伝承シャンプー」。

それまでも「肌にも環境にもやさしい」自然素材の物を通販で取り寄せて使っていた。ところが抜け毛が気になりだした。毎日風呂場の排水溝の金具の所に指でつまめるくらい抜ける。老眼が進み出した頃と同時期からなので、もう数年になる。でも、老化も自然現象と思って諦めていた。

祖父、父は禿げていた。兄は既に禿げている。弟もかなり前から薄毛。私は大丈夫と思っていたけど、そうではなかった。やはり家系だから仕方ないかな。

それが前向きに変わった。今月になってゲイの人達に実際に会って話すうち、恋愛もありかなと思えるようになってきた。私にしてみれば、それまでは一生秘密にして妄想の中の恋で終わるものと思いこんでいたのだから、すごい展開。

子どもの前に立つ仕事でもあることから、もともと身なりなどには気をつけていたほう。でも、こんな風に変わるとは自分でも想像できなかった。いつしか仕事上というより、プライベートなことで気をつけるようになっている。

そういえば、頭髪だけではない。眉と目の間の毛や鼻や耳の中の手入れをする回数も増えている。メタボ対策のゴムひも運動も、これだった!と自分で納得。

だからといって、頭髪の薄い人が恋愛の対象からはずれるというわけでもない。「いいなあ」と思う人もいる。あくまでも自分の容姿が気になりだしたということ。

さて、1回の使用でシャンプーの効果はわからないと思うのだが、気の持ち方で変わるもの。何かいい、それまでと違う。鏡を見ると増えてる気がする。期待がふくらむ。

そういうことまでが楽しい年頃?

2008年12月17日 (水)

終わったー!

今年の勤務が終了した。やったー!担当する授業は今日までだった。子ども達は24日まで登校、職員は26日まで出勤だけど…。私は子ども達に「また、らいねーん!」と手を振って帰ってきた。

最終日も短期集中でよく働いた。3時間、3クラスともテスト。残り1時間の勤務時間の中で90人分の丸つけは終わらないだろうなあ。その上、最後の最後になって急に理科備品の不足分を知らせてほしいだって。「エッ?非常勤の私が?後1時間で終わりなのに?」って思ったけど、担当学年のことは私の方が詳しいので、理科準備室に行って急いで確認。メモして依頼者に渡す。結局、テストの丸つけはほとんど手つかず。あー、持ち帰りー。でも、採点したテストを届けるためだけに明日わざわざ来たくないなー。

私の勤務期間や勤務時間、薄給であること、家庭の事情など他の職員は関心がない。私も言おうともしない。お互いに話す時間もないし。

仕方ないなあ。帰宅して昼食を済ませ、丸つけ開始。結構大変、母はそばにいてソワソワしているし…。どうにか終えて再び学校へ。何で1日2回も?片道30分弱だよ。

学校に着いた。まだまだ「いい人」ぶる自分に気づいた。さわやかな笑顔?(だったと思う)で「遅くなって、すいませーん。」だって。私の方が担任に頭を下げて渡していた。本音(何で?最後の最後まで、悲惨!これじゃ、パートじゃないよ。私は時間給なんだよ。)は、当然言えるはずもない。

昼間は不在だった校長先生の所に挨拶に行く。今の勤務の大変さを少しは伝えられるかなと思ったが、会議中で話を聞いてもらう時間はなさそう。「お疲れさまでしたー。来年もよろしくお願いしますねー。」と、あっさりと言われただけ。

まあ、いいや。

よくやったよ、君は。自分で褒めよう。

「当初の話とは違っていたけど、ハードな仕事を気持ちよく引き受けてくれましたね。学校(職員)は助かりました。安心して授業を任せることができましたよ。子ども達も理科の時間を楽しみにしていたようです。教材研究や授業の準備も熱心にしてくださっていましたね。家庭の事情があるにもかかわらず、家にまで仕事を持ち帰ってなさっていたと聞きます。そんな素振りも見せずに、よく頑張っていただきました。」

あー、スッキリした。

来年も楽しく働こうっと!

2008年12月16日 (火)

腹が痛い?

昨日あたりから腹筋?が少しばかり痛む。高校の時の部活以来かもしれない。

若い頃、体育や遊びで子ども達と走り回っても、痛むのは足ぐらいだったよなあ。

今回の痛みの原因は、ゴムひも運動。

夏を過ぎた頃からズボンのウエストがだんだんきつくなっていった。太ってはないのに…、たぶんメタボ?大きいサイズへの買い換えはもったいない、どうにかしないと…。

もともと運動は苦手。好きでもないし、続かない。たまたまテレビで紹介されていたのがゴムひも運動。これならやれそう。ゴムひもの両端を輪にして中に両手の指を通し、ひもを背中に回して前に引っ張るだけ。次に引っ張った状態で上半身をひねる。さらに膝を体に引きつけながらひねる。全部やっても3~5分。テレビを見ながら、1日1回。ゴムひもは家にあったもので紹介されていたものとはかなり違う。内容も適当で、自己流にアレンジ。

それがよかったのか、2,3週間続いているような気がする。そして、腹筋の痛み?

そういえば、ズボンのウエストのことも気にならない。ベルトの穴を一つずらして、きつくしても大丈夫。裸になると、気のせいかなあ、ポッコリも少し解消?いいぞー、その調子。

たぶん、のめり込むことはないとは思う。でも、健診の時にメタボで引っかからない程度になるよう、これからも心地よい腹の痛みを味わっていけたらいいなあ。

2008年12月15日 (月)

初恋

♪放課後の校庭を 走る君がいた 遠くで僕は いつでも君を探してたー

私の恋は、この「初恋」の歌詞のままだった、ずっと。

20代の頃、職場の同僚達との飲み会で、それぞれ初恋の人の名前などを具体的に話そうという場面があった。しつこく聞かれて、私はあわてて作った。

「小学校6年生の時、相手は同級生のNちゃん。さっぱりした性格が好きだったが、告白することもなく終わった。」

Nちゃんは実在の人物。女友達の中で一番親しかった。でも、恋心は全くなかった。

本当の初恋? 中学1年の時、同級生のY君。気軽に声をかけてくれて、行動をともにすることが多くなった。いっしょにいて楽しいし、私のことを気にかけてくれることが多かった。優しいY君への「好き」の気持ちが高まっていく。

最初はそれが恋とは思わなかった。雑誌のQ&Aコーナーで「異性を好きになる前に同性を好きになる時期もある」と読んでいたから。

私は、Y君への気持ちは、きっとこれだと思い、でも黙っていることはできず、手紙を書いた。

内容はハッキリ覚えてないけど、たぶん「Y君、好きです。」ということは、ストレートに書いたと思う。自分の名前を書かずに。そして、朝早く登校し、Y君の机の中に手紙を入れ、彼が手紙を読む姿を私は廊下で見ていた、ドキドキしながら。

Y君は手紙を読んだ後も変わった所はなく、それまで通り私とも話したり、遊んだりした。

しばらくして、Y君は隣のクラスの女子とつきあい始めた。失恋。それでも友達関係は続く。

それからも私は、異性を好きになることはなかった。「自分はおかしいのではないか?」と思い始め、好きになった同性に「好き」と告白することも手紙を書くこともなかった。友達、同僚としてつきあいながら、少し離れた所から見つめ想い続けていた、いつでも。

今、ようやく長ーい「初恋」の期間から抜け出せたかな?次に進めるかなあ?

2008年12月14日 (日)

ゲイバー

初めてのゲイバー。ただいま帰ってきました。

1週間前の「忘年会」で紹介してもらった所です。忘年会でもそうでしたが、今回もまたまたイメージ変わりました。

店はカウンター席のみで、マスターが一人でやっていてこぢんまりとしていました。いや、家族的な雰囲気でした。老け専?ということで年上ばかりかとも思いましたが、お客さんは30代~60代。私から見ればずっと若い人もいて、いい感じでしたよ。かっこいい子やかわいい子もいました、ドキッとしてほとんど話せませんでしたが…。

マスターの穏やかな人柄や気配りも気に入りました。料理もしっかり出て、安くて。お客さん同士も和やかに会話が弾んでいて、いいことばかりでした。

来週にでも、また行きたいと思いましたよ。

ただ田舎の奥地に住んでいるので、行くまでが大変。帰りはもっと大変。JRはかろうじてあるものの、乗り換えのバスは早い時間になくなるので、途中からタクシー利用となります。出費のほとんどが交通費。ゆっくりして泊まってくるという方法もあるのでしょうが、母を残して一晩家を空けるのは難しそうです。

まあ、今回のゲイバーデビューは大成功。ラッキーでした。

2008年12月13日 (土)

天ぷら屋にて

食品の買い出しに出かけ、ショッピングセンター内の天ぷら屋で昼食にした。

5回目ぐらいだけど、入ってすぐの雰囲気がこれまでと違う。挨拶や案内の声がない。席についてもオーダーになかなか来ない。別に急がないので、こちらから呼ぶこともせずに待っていた。少し遅れて注文。

入れ替わりでお客さんが入ってくるのに、片付けもスムーズにできない。テーブルが片付かないうちに席に着く人も…。それさえスタッフは気づかない。

厨房を見ると、見るからに新人が先輩から事細かに説明を受けている。原因はこれかな?

片付いてないテーブルに着いたお客さんが、待たされた上に呼び出しボタンを押す。「お待ちください。」の声は聞こえるが、すぐに来ない。ようやく来たのは、その新人さん。お客さんの注文を聞いただけで、前の食器類を片付けずに行ってしまった。

そのお客さんのイライラを私は感じ取ってしまった。

(何してるの?どうして片付けないのよー!感じ悪い店ねえ。ここの従業員は誰も気づかないのかしら。でも、私からは小言のようで言いたくないわ。知り合いもいる前で…。)

知り合いの方は目が不自由な方のようで、奥に空いている席もあったけど、片付いてないけれど、できるだけ入り口近くのその席に仕方なく座られたようだった。

私は新人じゃないスタッフに小さな声で「あのテーブル片付いてないですよ」と言わずにおれなかった。

そのスタッフさん「あ、すいません。」と言ったけど、片付けに来たのはあの新人さん。「お待たせしました。」「すみませんでした。」の一言もなく、さっさと片付けて行ってしまった。

後から来た隣のテーブルのお客さんには、丁寧な態度?で他のスタッフが応対している。

(ここって、お茶とかお水って出ないのかしら。まさか、セルフサービスじゃないわよねえ。)

またまた、お客さんの思いを感じ取ってしまった私。

新人じゃないスタッフに小さな声で「あそこ、お茶もまだ出てないですよ。」

かなり遅れてお茶が出て、その後すぐに料理が届くということに。でも、やっとホッ。落ち着いて?食べることができる。

以前の私はイライラを感じ取っても、あえて口に出すようなことをしなかっただろうな。今日は違った。たぶん言わないままだったら、ずっと私の中に不快感が残っていただろうなあ。

それに、これまでの私はいい子やいい人を演じていて(我慢することで)、かえって周りの人に不快感を与えていたのかもしれないなと思った。

2008年12月12日 (金)

クィア・セクソロジー

注文していた本が届いた。(中村美亜『クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす』インパクト出版会 2008)

まだ第1章「セックスの思いこみを解きほぐす」しか読んでないが、何かいい。私はやはりセックスについても自分勝手に思いこんでいることが多いなあ。少しずつだけど、読んでいて解きほぐされていく感じがする。

性教育も受けてない世代なので、どこで仕入れたかわからないが、セックスと言えば男性性器を女性性器へ挿入することと最近まで思い続けていた。筆者は、これを「狭い意味でのセックス」と言っている。

私は、そのセックスに嫌悪感があった。だから同性どうしのセックスなどとんでもなかった。それでも少しは想ってしまう自分はやはり「異常」?なのか。罪悪感さえあったように思う。

私はこれまで勤めてきた学校の性教育で、何気なく次のような言葉を発していたかもしれない。

「みなさんくらいの年頃になると、男子は女子のことが、女子は男子のことが気になってきたり、『いいなあ、好きだなあ』と思うようになったりしますが、これは自然で当たり前のことです。みんなそうなんです。それが普通だから、心配いりません。」

記憶にないけど、こんなことを言っていたかもしれない。性的指向が同性の子を傷つけたかなあ。一つの思いこみを植えつけたかなあ。

今となってはどうしようもないけど、まずは私自身が思いこみを解きほぐし、学校現場にいるからこそできることをやっていきたいなあと思っている。

2008年12月11日 (木)

成績締め切り

休みの日だったけど、今日も持ち帰りの仕事を家でしていた。

どうにか終わったぞー。明日各担任に渡す成績資料。仕事(授業)は来週まであるけど、これができれば、今年の仕事は一区切りかな。ちょっと一息。でも、夜は明日の授業準備が、あー!

学級担任はこの週末から来週にかけて凄まじい忙しさになる。考えただけで、もう嫌だー!

私が子どもの頃は「通信簿」。今は「あゆみ」「家庭連絡」「連絡票」…など、学校でいろいろ。形式も学校によって違う。評価項目が細かくてたくさんあるところや所見欄がいくつもあるところも。管理職への提出期限が早く、文章表現等を修正されることが多い場合などは特に大変。

去年勤めた学校はほとんど専用のパソコンで仕事。連絡票も手書きじゃなくて、学校にあるパソコンに入力してプリンターで印字。私は文字を書くことは好きな方だが、パソコンはやはりダメ。みんなが忙しくしている時期に、わからないことがある度に若い先生に頭を下げてきかなければいけなかったなあ、これも辛い。なれれば楽ちんなんだろうけどねえ。

今は肯定的評価を心がけるように言われる。言葉一つにも配慮が必要になる。文字として残り続けるもんねえ。

そういえば、私が小学校4年生の時、通信簿の所見欄に「協調性に欠ける」というような意味のことを書かれた。当時は「協調性」の意味がわからず、どんなことを褒められているのだろうかと思っていた。後でその意味を知り、ショックを受けたことがあったなあ。実際に協調性に欠ける子だったんだろうなとは思うけど…。

子ども達には「学校の成績?そんなの気にしない、気にしない。」という無言のメッセージを送っている。そうでないと、この私に人の評価なんてできないよ。

2008年12月10日 (水)

セルフ給油

「現金を入れてください。油種を選択してください。油種を選択してください。油種を…」

セルフスタンドでの機械の声。

(うるさーい。わかってる。千円札がすんなり入らないんだぞ。どうにかしろー。)

通勤途中にあるセルフスタンド。この繰り返しの声が嫌で、普段あまり利用しない。今日は燃料切れになりそうだったので仕方なかった。

生来機械類の操作などが苦手。ガソリン価格が上がりだした今年からセルフに挑戦。どうにかできた。でも冒頭の機械の声のように急かされると慌ててしまう。怒りを声に出せないので、心の中で叫んだ。

そうかと言って、スタッフ給油に戻そうとも思わない。地域性なのかもしれないが、マニュアル通りの心のこもらない言葉、耳をふさぎたくなるような元気のよすぎる挨拶…など。

とりあえずは我慢して、急かされない声の出るセルフスタンドで、忘れずに給油しよう。

2008年12月 9日 (火)

私の神様

2年前のインドで体験したこと。

インドに到着して最初の方にあったセッションでのこと。神様は遠い存在ではなく、自分の内側に、身近にいるという話。そして、その神は自分で好きなようにデザインしていいと言われた。

「あなたは、どんな神がいいですか。威厳のある神、父親みたいな神、母親みたいな神、恋人みたいな神、友達みたいな神…?自分の好きな神を想って呼んでみてください。」

私は何でも相談できる友達みたいな神がいいなと思い、神を呼んだ。

現れたのは「妻夫木聡」。

エッ?もう一度やり直して、友達みたいな神を呼ぶ。

妻夫木聡そっくりの青年がニヤニヤしながら現れた(もちろんイメージの中でのこと)。

「ひょっとして、君が私の神?」 「そうだよ。」と笑顔の彼。

それから、インドにいる間じゅう、ずっと対話をすることになる。

「君のこと、何と呼んだらいい?『プレくん』はどう?」(神のことを「プレゼンス」とも表現していたので)

「いいよ。どうぞ、どうぞ。」

プレくんには何でも話した。これまで誰にも言わなかったことも打ち明けた。子どもの頃から悩み苦しんだことや悔しかったこと、哀しかったこと。プレくんは「うーん、そうー」と言って、最後までずっと聞いてくれた。体調を崩して落ち込んだときには、おどけて笑わせてくれたりもした。日本に帰ってからのことなどを「どうしたらいい?」と尋ねると、「好きなようにしたらいいよ。」という返事。「じゃあ、~してみたいんだけど、どう?」ってきくと、「いいと思うよ。やってみたら。」と背中を押すような言葉。

毎日プレくんと楽しく話しているうちに、私にある不安がよぎった。

「インドではプレくんとこうやって話ができて、うれしいんだけど、日本に帰ったら会えなくなるんじゃないかなあ。」

「そんなことないよ。もしかしたら、今みたいにボクは現れないかもしれない。でも、君は気づいてなかったけど、ボクはこれまでも、そして、これからも君とずっといっしょだよ。」

私はうれしくて、ベッドの中で同室の人に聞こえないように大泣きした。

帰国すると、やはりプレくんは現れなくなった。でも、インドでの「ずっといっしょだよ」の言葉があったので、不安はなかった。

プレくんとは今でもたまに話している。困ったことがあると、「苦しいときの神頼み」の言葉どおり、「プレくん、どうしたらいい?」と呼ぶと、現れてくれる。いいことがあって「プレくん、ありがとう!」と言うと、「よかったね」ってプレくんがいっしょに喜んでくれる。

そんなふうに、神様との関係が続いている。ウソみたいなホントの話。

2008年12月 8日 (月)

置き手紙

「エト先生へ  

理科の授業のときに、てこにぶらさげるビー玉のかけるところが5年2組の教室におちていました。

かえしにいったらいなかったので、おき手紙を書きました。

いつも理科の学習をおしえてくれてありがとうございます。

  5年2組より」

今朝出勤したら、職員室の机の上に手紙が置かれていました。丁寧な文字で書かれた手紙には、実験で使ったクリップが2個、貼り付けてありました。

うれしい!何か内側が温かくなりました。

5年2組の授業の初めに、落とし物を届けてくれたこと、手紙をもらったことを話し、「うれしかったよ」と伝えました。きくと二人の女子が拾ってくれたようで、その一人Eちゃんが手紙を書いてくれたそうです。彼女は授業中も自分から発表することはなく、目立たない子です。お礼を言うと恥ずかしそうにしていましたが、私の気持ちも伝わったのかな、授業の終わりには進んで片付けを手伝ってくれました。

学級担任じゃなかったら、子ども達とのふれあいがどうしても少なくなります。今日の感激を忘れず、一人一人とのつながりを大切にしていきたいなと思いました。

ちょっとした一言も大事ですよね。傷つけることもあれば、心の支えになることもあります。

私が小学校3年生の時のことです。担任は当時私の父親と同年代くらいの先生でした。ちょっと恐かったかな。私はその頃から人見知りで、担任の先生といえども、自分から話しかけることなどできなかったのです。

どんな場面でのことだったかは忘れたのですが、ある時先生から言われました。

「先生は、エトのことが好き!」

私は先生の一言に元気づけられました。ずっと勇気づけられてきました。

数年前、その先生が散歩されている姿(おじいさんになられていたけど、不思議とわかりました)を運転中に見つけ、約30年ぶりに再会しました。先生も覚えてくれていました。

その後、何度かお会いしてお話ししましたが、2年前病気で亡くなられました。

先生とは思い出を語る中で、お世話になったお礼は言っていたのですが、先生からいただいた「好き!」の言葉への私の思いは伝えずじまいになってしまいました。霊前でそのことを報告すると、「きっと主人は聞いていますよ。わかっていますよ。」と、横にいらっしゃった奥様が涙を流されました。

2008年12月 7日 (日)

忘年会

あるSNSのコミュの忘年会に参加してきた。そう、地元のgay onlyコミュの飲み会。居酒屋の個室にて。

ゲイの集まりの中に入るのは初めて。20名くらいがいたかな。新入りで最年長の私にも、みんな温かくというか、自然に接してくれた。意識してゲイの人に会うのは、初めて(一度だけゲイの人の講演を聴いたことはあるけど)。

実際に会ってみて、イメージが変わったかな。

年齢や好きなタイプ、体験のことなど細かく聞いてくる人がいたけれど、正直に答えることができた。私の答えを聞いて「それは、苦しかっただろうねえ。」と共感してくれた。さらに「(その年齢で初めてでも)大丈夫。」と親切に老け専のゲイバーを教えてくれたり…。

一回りから二回りも年の違う若い人がほとんどだったけど、さまざまだった。明るく元気な人、大人しい人、落ち着いた人…。見た目もいろいろ。市原隼人、中村獅童、石黒賢、オレンジレンジ、大江千里、玉木宏、成宮寛貴、GACT…などに似てた?かな。

自分のセクシュアリティを隠すことなく過ごせる時間・空間は、居心地がよかった。特に会話が弾んだわけでもないけど、楽しかった。

家に母一人残して来ていたので、二次会はパスして、日付が変わる前にどうにか帰宅。

老老介護になる前に、今回のような小さなステップを踏むことができて、未来がまたちょっと明るく見えてきたかな。

2008年12月 6日 (土)

ゲイ オンリー

「インドに行くしかない。」の続き。

今年の夏、テレビを見ていたら、中高生の頃楽しみに見ていた番組の映像が出た。懐かしい。ネットで調べたら、詳しいことを覚えている人がいて、昔のことがよみがえってきておもしろかった。

何気なく、2年前から参加しているあるSNSのコミュも検索してみた。いくつか出てきた。一つだけ求める番組のコミュがあった。そこには「gay only」の文字。これって何?おそるおそるのぞく。エーッ!知らなかったあ。「gay only」「for gay」のコミュがあるのかあ?こんなにたくさんのコミュが?ゲイの人って、そんなにたくさんいる?驚き!

インドから帰国してから、男性が好きだという感情は素直に認められるようになっていた。ネットで検索すると、エロサイトがゾロッと出てきた。時々のぞいて楽しんでいたが、どこかに嫌悪感があり、それ以上踏み込むことも、詳しく調べようともしなかった。

「gay only」のコミュを見つけた頃にNHK『ハートをつなごう』の再放送にも出会い、探求欲は高まった。次々と調べ、本も読んだ。「性的指向」も「LGBT」なども、この時初めて知った。そして、自分のセクシュアリティはゲイかな、と(自分に)やっと言えるようになった。もちろんカミングアウトは誰にもしていない。

この年まで知らなかったなんて私だけ?それでもいいや。誰のせいでもない。そんなおもしろい(今だったらそう言える)人生を味わえたのだし、これからも私にしか味わえない人生があるのだから。

ブログを始めるまでの経緯は、大急ぎでここまで。とばしたこともいっぱいあるので、思い出した時に書いていこうっと。

2008年12月 5日 (金)

決めつけと思いこみ

先日、自分の誕生日プレゼント用に買った槇原敬之のCDを毎日聴いている。

歌詞が好き。着替えをしながら、布団を上げながら、…短い時間でもかけている。落ち着く。

誰ともつきあったことないのに、自分を「僕」に重ねて妄想している。ささやかな楽しみの段階。

長いこと、男性を想うことさえ、いけないこととして避けてきた。それでも、浮かんでいたけど。

今日1年前のCDも聴いてみた。キーワードは「決めつけ」と「思いこみ」という歌詞。去年とは感じ方が違う。当時は知識不足?で、まだ自分のことを受け入れることができなかった。思春期から勝手な思いこみで自分の人生を決めつけ、それでも生きていくために何かに救いを求めてきた。でも救われなかった。「そのままでいい」と思えたときに救われた。

「赤いマフラー」あたりで涙が流れてきた。決めつけと思いこみの世界から抜け出すことができたことの喜びかな?(いや、単に妄想に耽ってかも?)

だからといって、決めつけと思いこみに縛られていた人生に後悔はない。情報も今よりもっと乏しく、ネットもない時代だったから仕方なかったよ。それでも生きてこれた自分自身が愛おしくなる。そういえば「神様に感謝」という歌詞もあったかな。ホント、今は感謝。

笑われるかもしれないけど、この年になって10代の頃からをやり直していこうかなと思っている。期待と不安。でも、期待の方が大きいかな。楽しみ!

2008年12月 4日 (木)

立ち読み

母を車に乗せてドライブ(子守りならね親守り?)するのが日課。途中であの書店に久々に行ってみようと思った。そこは車で30分弱の郊外型書店。前回は2か月前くらいだったかな。

自分の性的指向を認められるようになったら、いろんなことにちょっとした興味が出てきた。(書店でゲイ雑誌を見てみたい。)

よく行く書店はどこにもなかった。田舎だしなあ。教育書なども結構揃うと評判のあの書店ならひょっとしてあるかも…。

あったあ! 感動! 何に? こんな田舎にもこの雑誌を読む人がいるということ、ホントに身近にゲイの人がいるんだろうなということに。中をパラパラと見て、その内容にも興奮。買う行動にまではいかず、急いで店を出た。

今日は真っ直ぐに18禁コーナーへ。周りに他のお客さんもいなかったので、余裕で雑誌を手に取りパラパラ。違う傾向の雑誌3種類が並べてあった、各2冊。前回より少し長く観察。買おうという気持ちにはならなかったが、おもしろかった。堂々とゲイ雑誌を立ち読みしている自分のことを思うと。もちろん周りからは見えないだろうけど。

帰りに一応教育書コーナーにも立ち寄り、パラパラ。

車に母を待たせている。いつもよりちょっと長かったかな。

「ここの書店、結構いろいろあっていいよねえ。」と私。変な言い訳。

2008年12月 3日 (水)

宿題

「理科の宿題、ないですか?(宿題を)出してください!」と、(「カチン!」で登場した)若い先生から言われた。今日のこと。

私は宿題を出すつもりはなかったので、エッ?という顔をした。

詳しく話を聞くと、毎日宿題のプリント作りが大変なので、理科の宿題(B5程度のもの)もあると助かるのだけれど…ということだった。そういえば、1学期にも「理科の宿題も出していいですよ」と言われたことがあったなあ。やっと意味がわかった。私の状況把握がまずいのか、カチンの言葉足らずなのか…。

そうとわかれば、がんばるよー。君のお役に立てるのなら。

職員室に戻り、大急ぎで原稿作り、休憩時間もなし。複製OKの習熟プリントを持っていたので、その中から宿題に適当な問題を吟味。もちろん子ども達のことも考えて。今日のところは4回分を作って、教室のカチンにすぐに届けた。何事もなかったように、「ハイッ、これ!」って。本当は「手伝えることがあったらドンドン言っていいよ」と言いたかったけど、原稿を渡すと話もせずに教室を出てきた。

よく考えて、心を込めて、丁寧に作ったけれど、がんばりが伝わるかなあ。

でも、今日は「いい仕事したなあ」と自己満足。

2008年12月 2日 (火)

やっと見つけた

入浴剤が切れていたので、ホームセンターに買いに行く。途中T君(「生まれ変わったら」で登場した先生)が勤める学校のそばを通った。

何といた!やっと見つけた!T君が校門の近くに立っていた。車を止めて話しかける勇気はないけど、手をあげて合図するぐらいなら…と減速した。でも、やめた。そばに保護者らしき女性がいて、まじめに話していたのだ。

元気そうだった。変わりなく、さわやかでかっこよかった。

1年ぶりだ。去年勤務していた学校で研修会があったとき、T君が声をかけてきた。

「こんにちは。お久しぶりです。」(その時は約3年ぶりだった)

突然の再会に、私はドキドキで、何を話したかよく覚えていない。

横にいた隣のクラスの女先生が「今の先生、誰?」と小声できいてきた。やはりかっこいい?

私は研修会どころではなかった。それなのに、パネルディスカッションのパネラーの一人に急に指名され、参加者の前で話すことに…。話は当然メチャクチャだった、と思う。

1年前、そんなこともあったなあ。

今日はT君と話したわけでもないのに、姿を見ただけでもラッキー!といった感じ。

買い物帰りにも学校そばを通った。もうT君は外に出ているはずもない。それでも、運転しながら探していた。おっと危ない!

2008年12月 1日 (月)

新幹線

夕方テレビを見ていたら「0系新幹線 ラストラン」のニュース。昨日11月30日が「さよなら」だったようだ。

私が新幹線に初めて乗ったのは、高校の修学旅行の時だった。鉄道に対して、特に思い入れがあるわけではないが、最後と聞けば感慨深いものがある。

私は過疎地に住んでいる。生まれも育ちもずっとここ。近所は高齢者ばかり。なので、私でも「若い人」になる。

いくつもの最後を見てきた。

出身校の統廃合。中学校跡は病院、小学校跡は体育施設に。高校は校舎だけがまだ残っていて玄関の門扉に「立入禁止」の看板が。

家のすぐそばを走っていた国鉄ローカル線の廃止。列車や警報機の音は生活の一部だった。私鉄バスも今はわずか1路線を残すのみに。

平成の大合併。生まれ育った市の名前は、もうない。

子どもの頃は街にもまだ活気があった。母が嫁いできた時は賑やかで、商店街を歩く人の波に流されそうになるほどだったという。

「昔はよかった」とは言わないが、やはり少し淋しいな。年をとったということかな。

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