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2009年1月

2009年1月31日 (土)

コンビニにて

夕食前の母とのドライブ。コンビニの駐車場で休憩。

飲み物でも買おうと店内に入ろうとすると、見たことがあるような子どもの顔。一瞬目が合ったが、そのまま中へ。

品物を選んでいると、少し離れたところで小さな声。

「エト先生じゃない?…」「何?聞こえない」「あそこにエト先生が…」

声の方を見ると、先ほどの子ともう一人。

二人とも教えたことのある男の子のようだ。

「こんにちは」と言って、手を挙げる。

「ほうら、やっぱりエト先生だろ。」「先生、お久しぶり。」

「○○君、元気?よく覚えてくれていたね。」

「理科の先生、忘れないよ。」

一昨年の春から夏、3か月だけ病休代替で勤めた学校で彼らと出会っていた。今と同じで5年生3クラスの理科の授業を担当していた。

短期間、週3時間だけの授業。それでも、私を覚えてくれていたこと、声をかけようとしてくれたこと、うれしかったあ。子どもは成長が早いから、しばらく会っていないと町中では気づきにくいもの。2人とも4月からは中学生。たくましくなっていた。

ちょうど「メダカのたんじょう」の学習をいっしょにしたよなあ。その時、家でも飼い始めたメダカは今でも元気に泳いでいる。宿泊で臨海学校の引率もしたなあ。キャンプファイヤー、楽しかったな。

当初の話では継続勤務になる可能性大ということだったが、病休中の先生が急に復帰することが決まり、子ども達にもなれたところでサヨナラ。別れの挨拶では大泣きしてしまったなあ。

車の中から見ていた母も気づいた様子。

「教え子さん? うれしいねえ。」

ホントうれしくて、辞められないなあ。

2009年1月30日 (金)

ウイルス

学級閉鎖などにはなっていないが、勤務校でもインフルエンザによる欠席者が増えている。

今日出勤すると、職員室の洗面所には、うがい薬と紙コップが置かれていた。職員の休みが増えても、学校がまわらなくなって大変。今学期になって、すでに2人の職員がインフルエンザにかかる。1人は先週、もう1人は今週治って復帰しているが。

私の勤務時間が終了する頃、先週復帰した先生の声が職員室に響く。

「やばい!38度を超えた。またかかったかも…。」

前回はB型だったので、A型にかかったのではないかなど、本人がいろいろ話し続ける。

インフルエンザかどうか、まだわからないのだけれど、それを聞いて私は

「インフルエンザだと思うのなら、あれこれ話すより早く帰ればいいのに…」

と思った。少しも相手の身になって「辛いだろうなあ」などと思わなかった。

早退後の仕事の段取りがあるのだろうか、その先生、ソファーに座って他の先生と話し続ける。

私は勤務時間が過ぎたこともあるけど、早くその場を立ち去りたくて「失礼しまーす」と言って帰ってきた。もちろん「お大事に」の声もかけない。

帰宅して、私は何と冷たいのだろうと考えた。

どうも「ウイルス」や「感染」ということに対して私は恐怖感があるようだ。詳しいことは知らないのに、耳にした情報の一部からそう感じているみたい。こういうことから偏見につながることも多いんだろうなあ。

病気で辛い思いをしている当人はもちろん、医療機関等で働く人や看病する家族のことを考えると、私の思いは自己中心的だったよな。

今日の私を責めるつもりはないけれど、自分の感じたことを見つめることで、また一つ新たなことに気づくことができたかもしれない。

2009年1月29日 (木)

旅役者

隣町にある廃業した温泉センターのそばをよく通る。今日も汚れた建物だけが残る荒れた場所を横目で見ながら運転した。

温泉センターができた当初はにぎわっていたよなあ。幾種類もの風呂の他に、温水プールや演芸場、宿泊施設もあり、この辺りでは珍しかった。その後、近隣に手頃な入浴料で入れる温泉施設が何か所もできたから、お客さんが減ったんだろうなあ。

その温泉センターには私も何回か行ったけど、最後に行ったのは十数年前の夏。温泉につかるためというより演芸を見に出かけた。そこは旅役者の一座が月替わりで公演をしていたように記憶する。その日は、ある一座の公演最終日だった。

私はその芝居には全く興味がなかった。当時6年生を担任していたが、クラスの男の子から「僕も出るから見に来てください」と電話連絡を受けていた。体は大きかったけど、人前で話すことさえ恥ずかしがっていた彼が、着物にちょんまげ姿で堂々と演じる姿を見て驚いた。そして、悲しかった。

ちょうど夏休みで、お母さんが働く温泉センターに彼がついていったらしい。その時、一人の役者さんが急病で倒れ、どういうわけか彼がピンチヒッターで舞台に立ったそうだ。それがきっかけで興味がわいた彼は、その一座に弟子入りすることを決めた。ドラマのような話。

翌朝には別の公演地に移動するということだったので、その日が彼との別れの日でもあった。急に決まったことで、同級生にもサヨナラをしないまま。

その後、学校も転々としながら、成人するまで役者を続けたそうだ。すごい根性者。

数年前に地元に戻り、今は老人保健施設で介護の仕事をしている。休日には施設をまわり、ボランティアで演じ続けているとも聞いた。

そして同じ施設で働く同僚の女性と結婚。披露宴にも招待されたが、新郎が一番派手な舞台衣装で踊るという不思議な光景だった。今は二人の子どものお父さんらしい。

2009年1月28日 (水)

忘れる

昨日よりさらに暖かい日になった。まだ寒さが戻ってくる日があるとは思うけれど、何かうれしくなる。

今年は正月から雪の日が多い。朝目覚めたら真っ白という日が何度もあった。

去年の秋、玄関近くのプランターに花の苗を植えた。パンジーとビオラ。雪に埋もれながらも、枯れることなくきれいな花を咲かせている。花は可憐だけれど、たくましい。楽しませてくれて、ありがとう。そんな気持ちで、終わった花を取り除いていたら、別の新しい芽が出ていることを発見。

完全に忘れていた。苗を植える時に、間にチューリップの球根も植えていた。

自分で植えていたのだけれど、思いがけずプレゼントをもらったような気分になり、喜ぶ。忘れることで、いいこともあるなあ。

母は、新しいことを次々に忘れる。自分で忘れてはいけないと思うことは、メモしている。例えば、翌日私が出勤の日には「○月○日 エトさん、お仕事です」というように。でも、自分でメモを書いたことを忘れる。「これ、あなたが書いてくれたの?」って、きいてくることもある。

先ほどは「あなた、晩ご飯食べたの?」と母。私が「お母さんは食べた?」ときくと、「私は食べたけど、あなたはどうだったかなと思って…。」そこで「お母さんといっしょに食べたよ。」と言うと、「そうだったね。」と笑っていた。

「けっこう、けっこう。あなただからいいけど、ほかの人といっしょだったら、とっくに老人ホーム行きね。」なんて言って、また笑っていた。

忘れることを苦にしなくなった母。病気は進行しているのかもしれない。でも忘れることで、一瞬一瞬を新鮮に楽しめているのだろうなあ。

2009年1月27日 (火)

大きな畑

寒さが少し緩んだかなと感じた一日。観賞用の菜の花畑もチラホラと咲き、一面が早春の色に。

好きな歌「大きな畑」を思い出した。学級担任をしている時は、子ども達とよく歌ったなあ。踊ったなあ。

♪大きな畑

小さな畑を たがやして

小さな種を まきました

ズンズンズンズン 芽がのびて

花が 咲きました (ポッ!)

2番は「小さな」が「中ぐらい」になって「パッ!」と咲き、3番は「大きな」で「ガバッ!」となる。動作がだんだんと大きくなっていく単純な歌。

そこがいい。誰でも簡単にできて楽しめる。

私は音楽が専門でもなく、何とピアノも弾けない。ただ「大きな畑」のようにリズム遊びのできる歌はたくさん知っている。大学で教わった。とにかく子どもになった気分で、時間内ほとんど歌い踊りまくるという講義?があった。おもしろかったなあ。

実際に教室で子ども達とやると、もっとおもしろい。子どもがやるとかわいらしいし、体全体で楽しむ。その姿を見ていると、格別の喜び。

もう大人になっている教え子からメールが来たこともある。

やんちゃ坊主だった子「俺のこと、覚えていますか。『大きな畑』、忘れていませんよ。」

お母さんになった子「娘にも『お寺の坊さん』を教えて、いっしょにやっていますよ。」

「お寺の坊さん」も人気があったなあ。あのやんちゃ坊主は「大工のきつつきさん」も好きだったよなあ。

子ども時代を楽しんでくれたらいいのだけれど、覚えてくれていると、もっとうれしい。

でも、去年の4月以来、歌う機会がないので、さみしいなあ。今の状況だと学級担任は引き受けられないしなあ。

2009年1月26日 (月)

切手

お年玉付き年賀はがき当せん番号が決まったことを新聞で知る。調べてみた。母の分1枚を合わせて4等が3枚だけ。切手シート。早速母に引き換えてきてもらった。誰に便りを出すことになるのかなあ。

毎年切手以外はなかなか当たらない。ずっと昔、切手シートの一つ上でレターセットなるものを、2回くらいもらったことがあるかな。でも、切手くらいがいいのかも。「あー、残念!」などと言いながら。

ちょうど16年前のこと。

この年賀はがきで、父は1等が当たった。田舎の方で珍しかったのだろう、新聞の地方版の小さな記事になった。名前が出たことにより大勢に知れ渡った。うれしかったとは思うけど、後が結構大変だったみたい。私は父と名前が似ているので、新聞を読んだ人から「もしかして、お父さん当たった?」って聞かれることがあった程度で、困ったこともなかった。

父は当せん祝?なるものを職場の人たちに配っていたようだ。テレホンカードだったかなあ。

1等賞品は、幾つかの中からの選択、何があったのかも覚えてない。父は何万円分かの旅行券をもらったようだった。

ちょうどその頃、私は父との関係を疎ましく感じていた。父が、結婚しない私に、その理由をしつこく問いただすことで嫌気がさしていた。曖昧な理由しかなくて「結婚しない」とハッキリ言う私に、父は最後に「親不孝!」と投げ捨てた。そして、話題にのぼらなくなった。

その年の夏、父は病気で入院、術後の経過が思わしくなく1か月程度で亡くなった。

もらった旅行券は、とうとう使わずじまい。母や息子の家族と一緒に旅行しようと思っていたんだろうなあ。

先ほど、父のノートを開いてみた。亡くなる5年前、父母と兄一家で旅行した時のメモがあった。最後に「楽しかったですね。また行きましょう。」と几帳面な文字で書いてあった。たまにパチンコをする程度で、仕事一筋まじめに生きてきた父。これからは旅行でもして楽しもうと思っていたのだろう。

「お疲れさまでした。ありがとうございました。」

「お父さん、私は結婚せず、あなたが思い描くような生き方はしていませんが、今も人生を楽しんでいますよ。そして、これからも…。」

切手は貼らなくていいけど、父に手紙を出す気分で。

2009年1月25日 (日)

ウインナー

スーパーで買った弁当を車の中で食べた。今日の昼食。

弁当のおかずの中にウインナーソーセージが入っていた。真っ赤なやつ。食べると懐かしい味。おいしい!とは違う。よく食べていたなあ。

中高生の頃、母が弁当によく入れてくれていたおかずの一つ。母は仕事が忙しく、炊事は祖母が担当していた。でも、子どもの弁当づくりだけは母の仕事だった。母の時代としては珍しく、娘の頃もほとんど手伝ったことがなかったらしいので、弁当の準備も一苦労だったと思うけど…。

そういう事情で、中味はワンパターン。火を通すだけのものばかり。焼いた塩鯖、醤油味で煮た蒲鉾や竹輪、卵焼き(巻かずに平焼き)、スパゲティ風うどん、ウインナーソーセージ、加工済みの餃子やシュウマイくらいだったかなあ。この中から2~3品が選ばれ、繰り返されていた。

今日食べたウインナーソーセージは、その頃食べていたものの味と似ていた。久しぶりの味に、何か不思議な感じがした。やはり、懐かしかったのかなあ。

「おふくろの味」といっても、特に思い浮かばない。よく食べていた弁当のおかずが私にとってのおふくろの味になるのかなあ。当時は、それが母の精一杯の愛。兄や弟の分も入れると、15年間途切れることなく、ほぼ毎日作り続けてくれたことになる。栄養的にはどうかと思うけれど、それで私たちは成長した。

兄の話を思い出した。

結婚当初だったと思うけど「スパゲティが食べたいので、作ってほしい。」と兄が義姉に頼んだ時のこと。

料理上手な義姉は腕をふるい、麺をゆで、具もたくさん入れて本格的なスパゲティを兄に出したらしい。

出てきた料理を見て兄は「これはスパゲティじゃない」、食べても「この味じゃない」と。

兄にとってのスパゲティは、弁当によく入っていたスパゲティ風うどん。油でインスタント麺をチリチリと炒めて、添付のトマト風味の粉末ソースを混ぜただけのもの。具は何も入ってないやつ。

今でこそ笑い話だけど、義姉はビックリしたことだろう。

真っ赤なウインナーにしてもスパゲティ風にしても、決しておいしいとは言えないけど、思い出をいっしょに味わってるのかなあ。

2009年1月24日 (土)

ストーブ料理

寒くなってからは、ほとんど毎日ストーブ料理。

居間の暖房器具は灯油のストーブが一つ。その上に食材を入れた鍋をのせるだけの料理。手抜きもいいところ。

前回は大根と里芋の煮物。二人暮らしなので、鍋一杯に作ったら1週間くらいは大丈夫。今晩の夕食で食べ終わった。

煮汁が残っていたので、今度は白菜・コンニャク・がんもどきを入れ塩を足して、今ストーブにかけている。火加減などは気にしなくていいから便利。鍋はドイツ製、ステンレスの高級調理器具。少しの間、この調理器具の訪問販売の仕事も兼業でしたことがある。高価だったけど、すぐれもの。

料理教室の仕事だけの時は、家でも試作して、楽しく料理していた。これにレストランの仕事が加わると、毎日ランチメニューを考えては作ることの繰り返しで忙しくて、楽しいなんて思えなくなった。家に帰ってまで料理するなんてウンザリ。

今も簡単なものしか作らない。手の込んだものは、外で食べるか、出来合いを買ってくるかにしている。それで十分。

料理教室時代の生徒さんの中には、料理教室の講師になった人や料理の仕事をするようになった人もいる。先日は、レストランのお客さんだった人から、自宅で予約制の店を始めたという案内がきた。一度来店してアドバイスしてほしいだって。そう言われると行きづらい。

自称料理研究家だった私も、今は何?って感じなので、彼らには本当の姿を知らせない方がいいかも。

あー、書いているうちにもう出来上がり。味見すると、かなりいい。これで何日かは白菜とコンニャクの煮物が続くー。

2009年1月23日 (金)

何が起こるかわからない

物騒な事件や天災など、日本国内はもちろん世界でも次々に起きていることがニュースで報じられている。

この先、何が起こるかわからない時代になったと言う人も多い。確かにそうかもしれない。以前の私もそう。

何が起こるかわからないのだから、自分の身は自分で守る。ということで、健康を求めた。

何が起こるかわからないのだから、何が起こっても動じない心を持つ。ということで、心の平安を求めた。

何が起こるかわからない=不安・心配・恐怖だった。

今は少し違う感覚もプラスされている。

何が起こるかわからない=おもしろい・期待・楽しい。

今日のこと。

朝、布団の中で「(仕事に)行きたくなーい!」とうなる。仕事上の嫌なことと疲れが重なっていた。それでも支度する。出勤前にパソコンを開くと、私の一昨日の記事(「辞めたーい」)にコメントをいただいていることがわかる。その内容もうれしかったあ。

まだ体も心もすぐれなかったけど、勇気づけられた。職場では授業前に、コメントのことが浮かんだ。ありがたいなあと思った。

授業が終わってしまえば、最初の疲れはかなりとれていて、嫌な気分もどうした?って感じ。買ってもらったばかりのメスシリンダーを子どもが倒して割ってしまうというハプニングもあったけど、怪我がなくてよかったと思うこともできた。

おもしろい。自分の感情の起伏も不思議。嫌な気分があった後の今の心地よさ。思いがけない、ありがたいメッセージ。

何が起こるかわからない。特別に何かを求めることなく、これからも落ち込んだり、喜んだりしながら、その時々を楽しんでいけたらいいのかな。

2009年1月22日 (木)

がっかり

県児童画展の(地区)入選作品展に行ってきた。1年前に担任していた子ども達の作品を見てみたかったから。

昨年末、入選者名簿の中に知ってる名前を見つけた時はうれしかったあ。「わー、あの子達、がんばってるんだなあ」って、顔が浮かんだ。

今日ワクワクしながら出かけたけど、ちょっと考えさせられた。

入選作だけあって、みんな上手。丁寧だけど、こぢんまりしていて似た作品ばかり。審査員好みということか。

特に知っている子の作品を見ると、「もっと、のびのびと描いていたけどなあ。大胆でおもしろかったよなあ。子ども達、楽しく表現できたのかなあ。」なんて思ったりした。

当時の勤務校には、この作品展に力を入れている職員がいる。毎年学級のほぼ全員を入選させている。指導力もありバリバリの先生だけど、私は知ってしまった。遅れた子の作品づくりを他の(上手?な)子に手伝わせる。先生が子どもの作品の一部に手を入れる。泊まり込みで先生達が仕上げ(木版画の刷りの段階)をする。

あの子達の作品もその影響を受けたのではないかと、つい考えてしまったわけ。

職員の間でも考え方が分かれていたが、そのバリバリの先生側が多い。私は少数派。面と向かって言えないけど「おかしいよ、誰の作品?子どもが楽しく表現することが大事だよねえ」と、コソコソ話していた。

でも、管理職や保護者には、一般的にバリバリ側が評判いいんだよねえ。

2009年1月21日 (水)

辞めたーい

今日も疲れた。帰宅してイスに座ってコックリ、コックリ。

あー、辞めたーい!3月までで辞めてやるー!

なぜ辞めたい?って、自分に問いかけてみる。辞めたーい!の前に、「頭に来たー!」があることに気づいた。

授業中のこと。担任の言葉。

「(エト)センセー、(今、子ども達は先生の)話を聞いていませーん!授業を進めないでくださーい!」(子ども達全員に聞こえる大きな声で)

その通り。私は実験を時間内に終わらせようと焦っていて、子どもの姿が見えていなかった。担任の先生は、子ども達を注意したつもりだろうけど、私は指導力不足を子ども達の前で指摘された、恥をかかされたように感じたのだ。

「横から口出ししないでください!」と言い返したいところを、平静を装い笑顔まで作って子どもへの話を始める私。これじゃあ疲れるはずだよねえ。

でも、その部分は変えられない。自分を見つめ、認めることで落ち着く。

気にしなくていいことだと言われるかもしれないけれど、私にとっては頭に来る、腹が立つということだよね。

今学期は、ずっと実験が続く。3学級連続の授業で、準備や後片付けが大変な上に、口出しまでされちゃ、たまったもんじゃない。

後片付けをしていたら、私の勤務時間はとっくに過ぎて給食時間。職員室では、談笑しながら食べている、誰もわかってくれてない。

こんな時は自分でねぎらいの言葉をかけよう。

「いつもお疲れさまです。よく頑張ってくれていますね。子ども達も喜んでいますよ。ありがとうございます。あまり無理しないでくださいね。」

2009年1月20日 (火)

今年2回目

昨夜、母が今年2回目の風呂に入った。何と11日ぶり。

毎夕「お風呂、どうする?」って誘うのだけれど、

ほとんどが「今日は鼻水が出るからやめとこう」「頭が痛いので入りたくない」という返事。あきれてしまって、今はそれ以上は勧めていない。

昨日は首から背中を掻いていたので、このタイミングと思い、声をかけると、

「入ろう!」っていうことに。びっくり、でもうれしい。

気持ちが変わらぬうちに、すばやくお湯を入れ、着替えの準備。服の脱ぎ着が億劫で、いやになるらしいから。それに、替えを順序よく揃えてなかったら、汚れた物をそのまま身につけることも。それでも平気なんだから、どうしようもない。

着替えの手助けも必要になってきた。私の前で裸になることも恥ずかしがらなくなった。まだ1人で浴槽には入れるけど。

できなくなったことが増えてきている。

昨年末は、ブラジャーやショーツも私が買ってきた。年をとったからか、女性用の下着売り場にも抵抗なく行けた。店員さんが丁寧にアドバイスしてくれて、怪しまれることもなかった。(男性用売り場だったら興奮することもあり、妄想して。)

介護は子どもの世話と似ている部分もあるけれど、時間的経過でみると子育てとは逆。成長と老衰。どちらも自然なことなんだけど、腹が立つことも多い。

母は「あなたにばかり迷惑かけて、すまないね。ごめんなさい。」と言うことも多くなった。

そんな時、私は「お母さんは私をこの世に誕生させてくださったお方です。おかげで私はこの人生を楽しませてもらっています。」と大げさに表現して、二人で笑い合っている。

今日? もちろん、着替えぬままで、すでに布団の中。

2009年1月19日 (月)

ドロドロ

「もののとけ方」の学習中。

前回は、氷砂糖をビーカー(水の中)につり下げて、溶けていく様子(シュリーレン現象)を観察。

子ども達の反応。

「すげー!」「先生、すごい、すごい」「ドロドロが出ている」「滝みたいに下に落ちている」など、各テーブルから次々と声がする。

何度も見ているけど、初めて見て気づいたように「ホントだー、すごいねえ」と共感する私。演技も含まれるんだけど、このように子どもが驚く姿を見るのはうれしい。

私は頭が硬いからか、溶ける様子を「もやもや」という言葉で表現しようと思っていた。学習ノートの記入例の言葉が頭から離れなかったから。でも、子ども達は「ドロドロ」と表現する子が多かった、3学級とも。「もやもや」はいなかったなあ。言われてみれば、「ドロドロ」の方がピッタリ。子どもはおもしろいよね。

今日は溶けて見えなくなったもの(食塩)はどうなったかを考える学習。溶かす前の食塩・水と溶かした後の食塩水の重さを量って比べる実験へとつながるのだけど。

前回食塩も水に溶かしたけど、教科書の例のようにしたら、溶ける様子が今ひとつだった。

そこでまた演技。

「この前、氷砂糖はドロドロと溶ける様子がよく見えたけど、食塩はよくわからなかったよね。そこで、どうしたらいいか家で考えたんだよ。そうしたら、これがありました!」と言って、正月の雑煮の出しとりに使った「だしパック」を見せる。

「この中に食塩を入れて、水の中につるしたらどうだろう?」

(やってみたい!)という目。

「わー、すげー!」「ドロドロー」「氷砂糖といっしょー」など。(あー、やってよかった)

終わってから1人の子が「先生はすごいよねえ、あの方法を考えたんだから。」だって。

実は、昨夜持っていた本を読んでいて、この実践例を見つけ、やってみようかなと急に決めたのだけど。

理科は子どもの頃から好きでも得意でもなかった。理科を担当するようになったのも学校(担任)側の希望。子ども達は私のことを理科の専門の先生と思っている。とんでもない。教材研究をしていて初めて知ることもいっぱい。ありのままの姿を見せると、子ども達も頼りないと思うだろうから、多少の演技も必要になるわけ。

この仕事をしているのに、私はどちらかというと人前で話すのは苦手。それでも、子ども達の前での演技は慣れてきたかなあ。

ようく考えると、演じることはもともと得意? 日常生活の中で長いこと演技し続けているんだもんねえ。

2009年1月18日 (日)

○カボン?

仕事始めの先週の疲れがとれないのか、スッキリしない。1年前に飲んでいた健康食品のことを思い出し、今日注文した。

商品名は「天才バカ○ン」に似た「マカボ○」。原料はペルー原産の植物「マカ」。マカといえば、私の中では精力増強というイメージがあって縁がないと思っていたけど、疲労回復にもいいみたい。

1年前、かなり仕事が辛かった。朝起きて調子が思わしくない時や「行きたくなーい」という時に、このマカボ○を飲むと、いつの間にか忘れて1日勤めることができていたんだよね。調子のいい時に飲んでも何も変化は感じなかったけど。

兄にも薦めてみた。気のせいかもしれないけど、もうダメだという時マカボ○を飲んだら、途端に体がカーッとなってきて仕事もできたと言う。すごいよ!って。やはり、それほど疲れてない時に飲んでも、あまり効き目は感じなかったとも言ってたけど。

ちょっと高価に感じるけど、8400円で1包みあたり140円。疲れた時の栄養ドリンクと思えば、そうでもないかな。顆粒状で飲みやすい。少量の水などで飲め、味もまあまあ。

まだ飲んでもないけど、思い出しただけで少し元気が出てきたかな。ということは、効果も気のせい?

2009年1月17日 (土)

きれいな体

遠い昔、私にも受験生の時があった。「あとがない○年入試」と言われ、受験したなあ。翌年から受験方法が大きく変わり「共通1次」(今の「センター試験」の前身?)が始まるという前年だった。

今日は「センター試験」ということで、受験した時のことを思い出した。

私が受験した頃、その大学に通っている高校の先輩が受験生の世話をしてくれていた。大学(試験会場)内の案内や昼食時の学食の席取りまでしてくれた。宿泊は近くの下宿屋さん。何から何まで面倒を見てくれた。

夜、入浴の時間。下宿屋の大きめの風呂に、大学生の先輩1人と受験生4人、いっしょに入ろうということになった。

私の裸をマジマジと見て先輩が一言。

「おまえ、きれいな体してるなあ」だって。

色白で当時細身だった自分の体にコンプレックスがあったので、特にうれしいとも思わなかったけれど、今だったらドキドキだよね。今でも覚えているということは、当時も気になっていたのは確かだろうけど。

試験の結果は不合格。別の大学に進学した私は、その先輩ともそれっきり。

あれから約30年。年をとると、「きれい」なんて言われることないよねえ。

それでも一昨年勤めた学校で、隣の席で同世代の女先生から「エト先生の手、きれいねえ」と時々言われたっけ。

子ども達からは何度か「エト先生は字がきれいですね」って、褒められたことがあるなあ。まあ、そのくらい。

若い時の「きれい」って言われた体になれない分、内面を磨く必要があるのだろうけれど、それも無理。ますます横着に。

「それでもいい」と言う人がいないものかなあ。

2009年1月16日 (金)

ガクガク

疲れたー。本格的に仕事がスタート。

「お久しぶりでーす」と笑顔で挨拶する子どももいて、かわいくてホッとさせられる。子ども達との授業は楽しいのだけれど…。

休み明けで体がまだ慣れてない上、今日は今年初めての授業。それに初の理科室。子ども達は変わらないのに環境がちょっと変わるだけでも緊張。やはり年かなあ。いや、まだ若いということかな。

一番気になったのは、担任の先生の目。授業は一人でしていて私に任せられているのだけれど、担任もいっしょに教室にいて他の仕事をしている。私の勤務時間の関係でコミュニケーションをとる時間がないので、授業中の子どもの様子を見てもらっておくのは助かるんだけどね。半年以上が過ぎ、担任の前で授業するのも気にならなくなっていたはずなのに、今日は違った。化学実験などは十分に気をつけないと事故につながりやすいのでピリピリするのはわかるけど、子どもが担任から注意されていると私が怒られているみたいに感じた。自分のペースを崩してしまい、さらに疲れたようだ。

まあ、これも慣れれば何ともないんだろうけどね。

終わったら体がガクガク。

帰宅して横になるほど。借りていたDVDを見ながら、うとうとしていたら、いくらか回復。

疲れた、大変だと言いながら、変化があるってことはおもしろいことだよね。来週はどんなおもしろいことがあるかなあ。

2009年1月15日 (木)

倹約生活?

昨年から仕事量を減らしたことで、収入も少なくなっている。月によっては、収入のほとんどが国民健康保険税・市県民税・国民年金の支払いに消えることもあった。税金の類は前年の所得に対して課せられるので、収入が激減した時は辛い。

そんなことを知ってか、家の経済状況を兄弟は心配した。

「お母さんの年金と合わせたら、どうにかやっていけてるよ。定期預金も持っているみたいだし…。」と昨年までの私。

あー、勘違い。あると思っていた定期預金はすでに使っていることが昨日わかった。

秋頃までの母はATMを使って預金の引き出しができていたので、私も母の通帳を気にかけて見ることもなかった。最近一人で引き出しができなくなって、いっしょに見るようになった。今月は孫へのお年玉や成人祝いで出費が重なり残金がわずかになってしまった。年金が振り込まれるのは来月なので、定期を解約するしかないという結論に。ところが、定期預け入れ10年を過ぎ、自動的に普通に振り替えられて入金されていることが判明。全部使ってしまっていたのだ。

通帳の中をじっくり見ると、ドンドン引き出しているのがわかる。

「お母さん、一体こんなに何に使った?」と、つい責め口調に。

「わからない」と哀しげに答える母を見て、「あっ、いけない。」

母のお金なんだし、かなり前に済んだことだもんね。

別の金融機関に少し定期預金があることがわかり、今日手続きを済ませ、とりあえずは大丈夫ということになり母も一安心。

母の生活は、これまでと変わらないだろう。残りが幾らなんて気にせずドンドン使っていくと思う。

私も、もともと無駄遣いはしないので、あまり変わらないとは思う。

ただ、少しショック。母のお金をどこかで頼りにしていた自分に気づいたこと。でも、そんな部分もある私。認めた上で、ちょっとは家計のことも気にかけて生活していこうかな。

2009年1月14日 (水)

避難訓練

寒さが厳しい中、勤務校で地震避難訓練があった。インフルエンザでの欠席者も出始めていたので、延期にしようかという話もヒソヒソとあっていたが予定通り実施。

今回は子ども達には予告せず。授業途中に突然の非常ベルの音。

職員室の行事黒板にも、児童の目に触れることを考えて、※のみ。職員の中にも訓練があることを忘れていて、ベルの音に驚き、やっと気づく者がいたほど。

緊急放送が教室に聞こえていなかったというハプニングがあり、教頭先生が慌てて再度放送をしていた。地震後に火災が発生したという想定で、運動場に避難。

私は授業もなかったので、一人で運動場へ。

職員も子ども達も訓練とはいえ、緊迫した雰囲気の中で、500人以上がすばやく行動できていたと思う。

特長ある学校というわけではないけれど、この学校いいよなあと感じた。

私は学力向上対策で雇用されている。わが県は全国的に見て、学力テストの成績が県平均で思わしくなかったらしい。私の勤務校のある地域が特に落ち込んでいたという。

そういう経緯で採用されているのに、当の本人が「学力って何?」と思っている。専門職でありながら。

まずは私が楽しめて、他の職員も楽しめ、子ども達も楽しめるんじゃないかな、なんて気楽に考えている。テストの結果はどうなるかわからないけどね。

以前勤めた学校には「学力テストの結果を学年平均で1年後には○○の教科は○ポイント上げる」と企業並みに数値目標を立てて取り組んでいた所もあったなあ。そのくらいしないと教育現場は甘いんだよと言われていたけど、あの時は息苦しかったよー。

2009年1月13日 (火)

ほどよい刺激

遅ーい仕事始め。約1か月ぶりの出勤。久しぶりに目覚まし時計のお世話になる。外は真っ暗。今日も雪の朝。

起きてビックリ。母がすでに朝食の準備をしている。ストーブにも火がついていて部屋は暖かい。

私が休みの間に、母は味噌汁の作り方を忘れた、ストーブの点火もできなくなった、と思っていたが、違っていた。私に少し甘えていたのかも。

「お母さん、すごい!」

母もうれしそう。味噌汁の味は、ウン?って感じだったけど、自分から進んでしたことがすばらしい。合格!

初日は私も心地よい疲れ。休んでいる間にたまっていた書類の整理や授業の準備。今週は明日も準備のための出勤で、担当授業のスタートは金曜日から。いいペース。

2学期は出勤初日に授業が始まり、大変だったなあ。家で準備することが多くてね。それに夏は2か月近く休みがあって体もなれず、汗だくで子どもの前に立ったなあ。

明日はストーブのない寒い理科室で実験器具の準備と試行実験。カイロを持って行かないといけないかな。子ども達といっしょだと寒くないんだけどね。

2009年1月12日 (月)

波瀾万丈

祖父(母方)が晩年、私に自分の人生を振り返ってしみじみと話す時によく出てきた言葉「波瀾万丈」。

成人になる前の私には、祖父の人生の苦労などよくわからなかったけれど、自分も人生を重ね、今だったら少しは共感することができるかな。

街に出ると、振り袖やスーツ姿を見かけた。似合っているとは思えなかったけれど、初々しいのはいいよなあ。

今朝は向かいの家にも振り袖姿が…。幼なじみの同級生が奥さんと娘を連れて、おじいちゃん、おばあちゃんに晴れ姿の披露?に来ていたしね。

私が「成人の日」で思い出すのは、祖父とスーツ。

前年の秋、同居していた父方の祖父が倒れ、入院。母方の祖父は「少し早いけど…」と言いながら、大急ぎで私にスーツを買ってくれた。祖父(父方)が危ないと感じたようで、葬儀などでも着ることができるようにと、現実的に考えてくれたようだ。

実際には成人式に初めてそのスーツを着ることになった。祖父(父方)の病状も落ち着いていた(入院生活は続いたものの、8年間持ちこたえる)。学生だったので、スーツを着る機会は他になかった。

2度目のスーツ着用は1年後。成人式を終えて数か月後、今度は祖父(母方)が入院。白血病ということで、翌年初めに亡くなった。私は1年前に祖父が買ってくれたスーツを着て、祖父の葬儀に参列することになった。

入院中のベッドの上でも、祖父は「波瀾万丈の人生だったよ」とつぶやいていたなあ。

2009年1月11日 (日)

思春期?

自分の年齢を言わなければならない場面になると、ためらうことが多くなった最近。言った後、自分で「エーッ!今まで何をしてたんだろう」と思う。

気持ちはずっと思春期の頃で止まったままだった。今から続きがやっと始まるのかなという段階。

高校時代は結構楽しかった。部活は山岳部。といっても岩登りなどはなかった。ちょっとマイナーなものに惹かれる傾向は、すでにこの頃から。初恋のY君も同じ高校に進学し、いっしょに美術部に入ろうと誘われたけれど断って、一人部室を訪問し活動内容もよくわからないまま即入部。

夏休みや春休みには、県外まで行って登山(3~5泊)。月に1回くらいは県内の山へ(1泊)。スポーツ登山の大会にも出ていたなあ、全部予選落ちだったけど。普段はランニングや柔軟、荷物担ぎなどの練習をしていたっけ。顧問の先生は、宿泊の時についてくるだけで、ほとんど自分たちで計画を立ててやっていた。

部員同士の関係も協力的でよかった。助け合わないと、遭難につながることだってあるしね。それに今振り返ると、部の先輩・同級生・後輩の中にも好きな人?がいたなあ。当時自分の性的指向を認めることができていなかったけれど、好きな人とふれあうこともできて気持ちは安定していたのかも。宿泊の時なんかは、狭いテントの中で体と体が密着するんだもんね。寝袋の中にもぐっているので間接的なんだけど。その頃は興奮しなかったけど、今思うとすごいよ。

まあ、暴走しなくてよかったのかも。

「遅咲きは狂い咲きになるよー」なんて、先月何人かに言われたけど、今が思春期?なんだから、狂うかもしれないよね。

2009年1月10日 (土)

センパイ!

大事に、普段使いしているマグカップがある。コーヒーを飲む時に思い出す、片想いだったO君のこと。それは彼からのプレゼント。

5年間同じ学校に勤め、別れ(離任式)の日に「センパイ、ありがとう!」と言って渡してくれたよなあ。

彼との最初の出会いは、勤務校が同じになる2年前。東京にて。同じ大学の通信教育を受けていて、そのスクーリング(面接授業)の際、宿舎が同じ学内寮だった。出身県が同じということもあり、時々話す仲に。帰郷してからは、同じ県内に住んでいても家が離れていたので会うことはなかった。

彼が1年早く採用され、その後私の採用が決まってみて、ビックリ! どちらの家からも遠い同じ学校に勤めることに。

彼の方が仕事の上では先輩だったけど、私の方が4つ年上だったからか、彼は私のことをずっと「センパイ!」と呼び続けた。私は彼を「O君!」と。

よく二人いっしょに行動したよなあ。友達が少なく、人に話しかけるのも苦手な私。O君は、そんな私にも気軽に声をかけ、何にでも誘ってくれた。親しくなって、彼のアパートにもよく行った。いっしょに中国旅行にも行った、ホテルはいつも同室。ただ、恋愛のことと性的なことは、なぜか話題にならなかった。だから、友達関係が続いたとも言える。

O君は今仕事の関係で台湾に住んでいる、もう3年。今年の3月末に帰国するはずだけど…。去年4月にいっしょに勤めた同期採用の女先生も「Oさん達(奥さんのNさんも元同僚)が帰ってきたら『お帰りなさい会』をしようよ」と言ってたんだけどねえ。

今年は年賀状も来ないし、2日に打ったメールの返信もまだ来ない。ウーッ!どうしたんだろう?

2009年1月 9日 (金)

冬の海へ

1日2回、母を助手席に乗せてドライブするのが日課になった。昼食時と夕食前。

以前は、母が楽しめるようにと考えて、名所といわれる所や催し物があっている所に出かけていたが、今は私が適当に行き先を決め、目的もなく車を走らせることが多い。最近の母は、病気?と老化のため、見たことも次々に忘れていくし、人混みに出たり歩き回ったりするのも億劫になっている。でも、家にジッといるのは耐えられず、ソワソワし出して隠れてビールを何本も飲む状態(近くの酒屋やスーパーには一人でまだ行ける)。

そこで考えたのが、私が楽しいと思うこともしながら、母をいっしょに連れてまわる方法。これだったら、私も負担が少ないし、母も大喜び。母は私の車の助手席に座っている時、一番うれしそうな顔をする。気持ちも安定しているように見える。

今日は海が見たくなった。内陸部に住んでいるので、海までは1時間半はかかる。それでも、思い切って出発!

行く途中も(帰りも)、母は私のことを褒めまくる。「私は幸せ!」を連発。同じ話を何度もする。今ではようやく慣れて、聞き流せるようになった。

目的地に到着。といっても、ただ海沿いの道路を走るだけ。冬の海、よかった。車も少なく、人影もない。厳しい表情(波や色)に、なぜかホッとする。

昼食は近くの「道の駅」。食事も弁当などを買ってきて、車中で食べるのを好む母。車から降りようともしない。「天然物」の表示に惹かれ、やや高めの「ふぐめし」と「穴子めし」を買う。まあまあのおいしさ。

二人とも満足?して帰宅。ちょっと疲れた私は近くの理容院へ。約1時間後帰ってみると、3本もビールを空けて夕食の準備をしようとしている母(実際にはもう夕食の支度はほとんどできないのに…)。怒りまくる私。母に何を言ってもしょうがないのだけど。

ある程度文句を言ったら私も落ち着き、気持ちを切り替え、ドライブ第2弾に出発。今夜から寒波到来のニュース。陸の孤島になってもいいように、食料品の買い出しへ。

こんな毎日の繰り返し。あー、でも、来週からは仕事も加わるんだったあ。

2009年1月 8日 (木)

十四の瞳

こちらでは、今日が3学期の始業式だという学校が多い。私の勤務先もそう。でも、まだ休み(正確には無職状態)。それもちょっと淋しい。

正月気分がまだ抜けてないボーッとしている時に、寒ーい体育館で校長先生のお決まりの話を聞くのは、少し身が引き締まるもの。子ども達もテンションがあがらず、ちょっとよそよそしく振る舞い、新鮮に感じるのもいい。

始業式といえば、去年の4月のことは忘れられない。

去年の3月末で、産休(育休)代替の仕事が一区切りして、私は学校勤めを辞めるつもりでいた。周りの人には、疲労回復のためにしばらく休むつもりと言っていたけれど、家庭の事情などを考えた結果…。先の見通しは何もなかったのだけれど。

4月4日の夜だったか、自宅で体も気持ちも完全オフ状態でダラーッとテレビを見ていた時のこと。1本の電話。

「エトちゃーん、助けてー!」

新任の時、同じ学校の同期採用だった女先生から。何事か?

彼女の学校で、1年間勤める予定だった講師の先生が急にできなくなって、後任が決まらず困っているらしい。教育委員会関係は年度初めですべて配属が決まっていて今更無理だと。後は職員全員で心当たりのあるところに電話するしかなくて、その最中という。彼女には私がしばらく休む予定という噂も耳に入っていたらしいが、もう他に電話するところが思いつかず、私の事情を承知の上で連絡してきたという。

もちろん、断った。それでも、彼女の懇願は続く。どうにか、5月からの人材(他の学校に病休代替で行っている人)は見つかったらしい。後は4月の1か月間。何と明日が始業式と言う。しばらく話した後、泣きそうな彼女の言葉が。

「明日、子ども達は進級して新たな気分で登校してくると思う。どんな先生になるか、誰もが楽しみにしている。それなのに、あの学年だけ担任の先生がいないなんて…。私が1年生の時に担任していた子達なの。みんな、元気でかわいい子。あの子達のことを思うと、かわいそうで…。」

私は、その言葉で落ちた。

すぐに校長先生から興奮した声で「ありがとうございます!助かりましたー。」

約12時間後、私は体育館に立っていた。

「今度新しくこの学校に来られた先生を紹介します。…次に、○○小学校から来られたエト先生です。…」

3年生の担任になった。子ども達は7人。前日からの舞台裏のドタバタなどなかったかのように、穏やかな時間が流れる。

それから1か月。私は田舎の素朴な子ども達と豊かな自然の中で楽しい毎日をすごした。短い間に、授業参観や家庭訪問も経験した。

4月末、「今度こそホントに休みます」と職員に挨拶し、無事終了。

でも、かわいい子ども達とふれあううちに、私は学校勤めをもう少し続けてみてもいいかなと思うようになっていた、しばらく休んで…。

さらに2日後、タイミングよく今の学校の校長先生から電話があり、また学校に勤めるようになって今に至っている。

やはり私は今の仕事が好きなんだと改めて気づかせてくれた、7人の子ども達、保護者や先生方に「ありがとうございました。」

2009年1月 7日 (水)

野草のようにたくましく

テレビのニュースや料理番組では「七草粥」のことが採り上げられていた。今年もだけど、しばらく食べてないなあ。もともと我が家では、七草粥を食べる習慣がなかった。

今はスーパーなどでも七草セットが売られている。でも、ハウス栽培だったりするらしい。旧暦の頃だったら、野生のものが見つかるかもしれないが。

料理教室の講師をしている頃、1~2月のメニューには「七草粥」を入れていたなあ。併せて「野草の生命力」なんて話もしていたっけ。身近で採れるハコベラ(ハコベ)は、おひたし・天ぷら・ピザのトッピングなど、工夫して食べていたよな。

七草以外では、ヨモギやふきのとうが好きだったなあ。あの青臭い香りや苦みがいい。ふきのとうは足を伸ばして探し回り、マイスポットが見つかったと喜んでいた。冬から春にかけての楽しみの一つでもあった。近年は農産物販売所などでタイミングよく見つけたら、買ってみようかなという程度。

「野草の生命力」では、どんな話をしていたかなあ。

寒い冬の間をじっと耐え、春に向けて準備している野草には、ものすごい生命力・パワーがある。もちろん栄養的にも優れているはず。でも、科学的に解明されてないこともあるだろう。それは有機栽培の野菜の比ではない。また冬の間に体にため込んだ脂肪や塩分、老廃物などを体外へ排出してくれるはたらきもある。自然界でも冬眠からさめた熊は、まずふきのとうを食べるという話も聞く。野草はあくが強いけれど、調理法に気をつければ、それが旨味に変わり体にもいい。すばらしい食材、身近にもあるこの野草を見直そう。

大体こんな内容だったかな。蘊蓄?タラタラ、今はもう恥ずかしくて話せない。

でも、思い出してて感じた。やはり野草はすごい!

厳しい環境の中でも、ひっそりと健気に育つ。最初はゆっくりと成長するが、暖かくなるとグングン伸びる。独特の味わいがある。時には誰かの役にも立つ。

そんな生き方、いいなあ。

2009年1月 6日 (火)

初妄想

お気に入りの若い先生(カチン君)からの年賀状が昨日届いた。ちょっとうれしい。

今の職場関係では、私からは誰にも年賀状を出してなかった。それでも私に出してくれた人がいた、校長先生とカチン君の二人。事務の先生には住所を知らせているけれど、年度途中からだったこともあり、職員名簿の住所録にも私はない? 非常勤だから、そんなものかも。

でも、カチン君は調べて、出してくれたんだあ。決して上手とは言えない文字で「今年もよろしくお願い致します。 カチン」と添えてある。素朴で、かわいい。

差出人欄の住所を見て想像がふくらむ。えー?カチン君って、あそこ(この辺りじゃ街の方)に住んでるんだ。(おしゃれなカタカナ名からすると)マンション? ということは、やはり一人暮らし?

昨日届いたということは、年末は疲れが出て、寝込んでいたんじゃないのかなあ。いつも頑張っていたもんねえ。もう大丈夫かな? 実家に帰って、ようやく年賀状書きに取りかかれたのかもね。

仕事以外のことでカチン君と話したことはないので、彼が未婚なのか、一人暮らしなのか、何も知らない。これまでの日常の観察をもとに、勝手に想像したということ。

カチン君とは共通の話題がないわけでもない。去年の3月まで勤めていた学校の研修会などで何度か顔だけは合わせていたし、前の年度まで、カチン君はその学校に勤めていた。それに、私が担任していた当時3年生の子ども達を1年生の時にカチン君が担任していたということもある。

なかなか私の勤務時間内では、仕事以外のことで話す時間がない。昨年末の忘年会がチャンスだったけど、それもできなかった。今年はどうにかして話してみたいよね。私の初出勤は13日で後1週間あるけど、楽しみにしようっと。

ところで、私に年賀状をくれたもう一人、校長先生は少し年上だけど、独身で優しい人。

でもね、女性。

2009年1月 5日 (月)

家族創造

地元紙の朝刊に「家族創造 それぞれの流儀」という記事が連載されている。今朝はトランスジェンダーのミサさんの家族のこと。

ミサさんは元奥さんと長女・次女の4人で暮らしている。「性同一性障害(GID)」を家族に告白したのが7年前。突然のことで受け止めることができない奥さんとの夫婦関係は崩れ、娘達は動揺し、両家の親からも絶縁状態になる。そして、別居。

何よりもミサさん自身がぼろぼろになっていくなかで、見かねた元奥さんが同居を決心。別居後2年、再び4人暮らしへ。娘さん達も成長し、今は「よそはよそ、うちはうち」と言い、父親を「ミサさん」と呼ぶまでに。

ミサさんは私と同世代。記事の中の「…まだGIDの定義すら明確ではなく、自分を否定しながら生きる日々だった。…結婚して子を持てば『治るかもしれない』との望みもあった。…」という部分には共感。私も「何のために生まれてきたのだろうか」とよく考えたものだ。結婚を考え、紹介してもらった女性数人と会ったこともある。でも、一番長く続いても1か月。ほとんどが私から断ったり、連絡を取らなくなったり。交際すること自体が無理だった。

新聞記事には元奥さんと笑顔で写るミサさんの写真。ミサさんは顔出しでテレビの取材にも応じている。去年ローカルニュースで見たことがある。市役所の窓口で女性の姿で働いていた。

ちょうどいっしょに見ていた母が「気持ち悪い!」とひとこと言って席を立つ。無言で見続ける私。それが現実。

年老いた母に説明しようとも思わないし、私自身のことを自分から切り出すつもりもない。ただ、必要に迫られれば語っていってもいいかな。心の準備はできつつある新年。

2009年1月 4日 (日)

ささやかな幸せ

いつも行くショッピングセンターにて今年初の買い物。明日は豆腐入りの味噌汁が食べたい、納豆も…。

今年の正月料理は無駄が少なく、今日の夕食できれいに終わった。おせちの残りに雑煮の具とつゆ、母と二人で食べきった。屠蘇も二人で飲み干した。よくやったと、自己満足。

昨日あたりからすでに片付けモード。器やテーブルなどもしまっていき、ゴミもドンドンまとめていった。世の流れエコとは逆行し、我が家は今回使い捨てを多く取り入れ、手抜きを自分で奨励。鏡開きなどの慣習も気にしないで、鏡餅やしめ飾りも一足早く…。

あー、すっきり!

一方、買い物は世の流れに合わせてゾロゾロ。豆腐と納豆を買いに…というのは自分への理由づけ。実は、年末の買い物の時にもらった引き換え券での福引きが今日までだったから。結果は母と3本ずつ引いて、全部末等の入浴剤。それでも、何か嬉しい。

母をベンチに待たせて、紳士向け衣料コーナーを一人で見てまわる。ここで予定してなかった買い物をすることに。衝動買い?というのかなあ。某ブランドの福袋まで買った。こんなことは初めて。これまた、いい気分。

これまでが世間知らずなだけだったのかもしれないが、ちょっとした日常の出来事の中に幸せを感じている自分を発見。ありがたいことだなあ。

2009年1月 3日 (土)

サンキュー先生

学生の頃だったか、テレビで「サンキュー先生」というドラマがあっていた。西田敏行主演で小学校の産休補助教員を主人公とした学園もの。数回しか見なかったけど、印象に残っている。

当時の私は、めざしていた教員養成系の大学受験に失敗し、浪人をする気力もなく、教職をあきらめて受かった大学に仕方なく?通っていた。

ドラマはフィクションなんだけれど、別の仕事をしてからでも先生になれるという希望を持つことができた。

卒業後、経理事務の仕事をすることになった。その頃はパソコンなどなく、朝から夕方まで机についてソロバンをはじく毎日だった。1~3月は残業で、それが夜遅くまで続いた。単調な生活の中に将来の展望も持てず、教員に挑戦するなら若い今のうちしかないと思い、3年で退職。通信教育で教員免許を取得し、その翌年の採用試験に運良く合格した。しかし、10年勤めて退職。それから7年間放浪?

再就職しようと思っても年齢的に厳しく、「サンキュー先生」の道へ。実際には病休代替が多かったけど、昨年3月までの7か月間、産休(育休)先生をした。年度途中から学級担任を受け継ぐのは大変で、慣れるだけで一苦労だったなあ。ドラマのように、閉鎖的な教育現場に新しい風を吹き込むなんて…、とんでもなかったよ。

私が勤める半年前に新校舎となった学校には、教室にエアコンがついていて、残暑厳しい時期にも快適、冬は教室内で「寒い」ということがなかった。ところが、なんと運動場ができてなかった。町政のゴタゴタがあり、予算の関係で運動場予定地は荒れ地のままだった。私が行く前からだから、子ども達はかなり長期間にわたって、外で思い切り遊ぶことができてなかった。体育の授業も全部体育館。子ども達はよく辛抱していたよなあ。私が学校を去る3月にも、まだ工事に取りかかってなかった。

今日、母を連れたドライブで久しぶりにその学校のそばを通った。学校の近くまで行き、運動場を確認。

おー!運動場が完成している。サッカーゴールも設置してある。鉄棒・ブランコ・すべり台だってある。まだ、仮の形みたいだけれど、よかったー、ホントよかったよ。

私が担任していた子ども達の走り回る姿や遊んでいる笑顔が思い浮かんだ。もう少し「サンキュー先生」を続けようと思った。

2009年1月 2日 (金)

どんな生き方をしようとも…

「お前がたとえどんな生き方をしようとも、俺はお前のことを理解しようと努めるよ。」

父の法事で集まった時だったか、兄が私に言った言葉。所帯を持たず、安定した職を捨てては転職をしていく私に、たぶん親戚が何か言っていたのだろう、私の耳には入ってこなかったけど。口数の少ない兄からのこの言葉を私はずっと覚えている。

またある時、結婚しない私と父とのギクシャクした関係についての話になった場面で、兄は「お父さんは『結婚』とうい形に執着しすぎていたと思う。俺は、お前の意思だから結婚しないという選択があってもいいと思う。ただ、愛する人はもってほしい。それが同性の相手であってもいいから…。」その時は聞き流していたけれど、今思うと衝撃発言。この言葉も私の中に残り続けている。

そんな兄一家が昨日帰省した。3時間ほどで義姉の実家へ行ったけど、今年の正月も兄や家族の笑顔を見ることができ、和やかに話ができてよかった。

兄は数年前からうつ病。薬を飲みながら会社勤めを続けている。何度も自殺を考えたこともあるという。パニックになって私に電話をかけてきたことも数回ある。私は何もアドバイスなどできないので、ただ聞くだけだったが、それでも「お前ぐらいにしか話せなかったから…、でも話を聞いてもらえただけでもよかったよ。」という感じで落ち着きを取り戻すこともあった。

兄の長男は今年成人式を迎えるが、幼い頃に自閉症と診断され、今は自宅から作業所に通い、簡単な分解作業をするまでに成長している。言葉が出ないので、コミュニケーションをとるのは難しい。兄や家族の苦悩は、親兄弟でも理解できないであろう。

それなのに、兄が長男ということで「(認知症?の)母親のめんどうを独り者の弟に任せっぱなしで(長男として)今後どうするつもりなんだ?」とプレッシャーをかける親戚がいるようだ。

私は今の状態がベストだと思うけれど、人はそう思わないんだね。田舎は特に、家柄が…、長男だから…、結婚もしないで…と言う人がいるんだよねえ。

私は耳にしてもそれほど気にならなくなっているけれど、兄は辛いだろうなあ。

2009年1月 1日 (木)

おみや

目覚めてびっくり!雪の元旦となった。屋根や道路にも積もっている。

母と二人、雑煮を食べて新年のスタート。その前に屠蘇の入れ忘れに気づき、大急ぎで…。

雪が落ち着いてきたところで、裏山の神社に初詣。神道に関心があった頃もあり、その当時は何度もお参りしていたが、今は年に1回だけ。

田舎の神社、それでも夜中は人出も多いと思うが、私が出かけた頃は参詣者もポツリポツリ。すれ違う見知らぬ人同士、年寄りも子どもも「おめでとうございます」と挨拶するのは新鮮で気持ちよかった。神棚のお札も買い換えたが、神社の方の応対も落ち着いていて丁寧で清々しい気分になる。神前では特に願うことなし、感謝のみかな。

昨年末から200個?の提灯が石段の上、参道沿いに灯されることになった。家の部屋の窓からも見えていたが、間近で見るとお見事。でも、帰りに提灯の裏側が目に入り、寄付した方の名前(商店名や企業名)が全てに大きく書かれていて、ちょっと興ざめだったけど…。

ここの神社は私にとって身近なところ。地名も「天神 宮ノ元」。ここで生まれ育った私は、お宮参りもこの神社。子どもの頃は遊び場。

近所の子達と「おみやに行こう!」「おみやで遊ぼう!」ということが多かったなあ。

一気には上れなかった長い石段。鳥居の上に小石を投げ上げて、載せるのを競った。狛犬にまたがって遊んだことも。社殿の床下にはアリジゴクの巣があったなあ。神主さんに怒られたことも…。祭の時には相撲大会もあった。

この地に、台風や地震など天災が少ないのは、「氏神様が守ってくださっているから」という言葉も祖母からよく聞いていた。

今では直接参拝に行くことは少なくなったが、毎朝部屋のカーテンを開ける度に、鳥居や杜の大木が目に入る所に住んでいるので、我が家が「おみや」の一部のような感じかな。

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